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自分用メモ。行かねば。入らねば。

湯原温泉(岡山県真庭市)


温泉寺文書
湯本にあった温泉寺(薬師堂が温泉街に残っている)文書の中に「慶長十七年に湯本村の美甘宗玄が森忠政の許しを得て温泉を開き、薬師堂を建立した。宗玄は久世町薬王寺の檀家なので、薬王寺の末寺として温泉寺と名付けた。棟札は慶長十七年、願主・宗玄」とある。また、「本尊は薬師如来であり、開祖は美甘惚兵衛、慶長十一年成就」(『湯原町史』から)とある。
江戸期から温泉の元締めをしていた湯本屋の美甘家に残る森忠政の温泉免許文書にも、「湯本請所(温泉のこと)について申し付ける。他国の者が出入りするので、諸事みだりなくするよう心得ること。当年中の請所の運上銀(税金)は、二百七十目。湯本村、惚兵衛、慶長十七年(一六一二)」と記され、温泉の起源について触れている。

(元禄の資料が示す伝承)
慶長年間になり、森忠政は(宇喜多秀家の造った)湯場を修復して訪れた。二代目藩主の長継も新たに修理した。また、その子忠継もたびたび湯治に訪れた。

『昭和40年にたどった大山道』小谷善守 津山朝日新聞社 より引用




露天風呂 砂湯(すなゆ)
砂湯はもともと平安中期の僧侶によって開かれ、初代津山藩主・森忠政が川底から湧き出る泉源を石で囲って湯船を造ったと伝えられています。

湯原温泉「菊の湯」サイト様より。
http://www.yubara-kikunoyu.com/sight/yubara_onsengai.html


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この記事は「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」の続きです。

「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」を読む。


>『妙見宮由緒書』(密蔵院蔵)
一部抜粋。なお、環境依存文字は管理人の判断で常用漢字に変換しています。

一、中古兵乱打続、神社等一統衰廃之時節ニ及ひ、濃州土岐郡妻木之城主伝入、幷、同国可児郡兼山之城主森右近、右両人天正年中放火いたし、当社寺院とも焼失仕、其後太閤秀吉公朝鮮御征伐二付、諸国ヨリ兵船之材木出候所、当山妙見宮ハ七曜破軍星之上首、殊ニ稲種命者、東夷征伐武勇之神ニ候得ハ、旁之故を以、当社神木之内ニテ、帆柱杉木七本御伐取有之、右ニ付、本社等再建可致旨ニテ、料物被下置候、右金子を以、其砌本社等再建仕、則只今之社ニ御座候、右由緒を以、秀吉公御再建之社と只今も申伝候事ニ御座候

一、前顕之通、天正三年妻木之城主幷兼山之城主申合、放火いたし、当社不残焼失仕候、然処、右両人神罰を受ケ、種々之禁御座候付、両人とも前非を悔ひ、御詫を祈候処、妻木之城主ハ当社内ニ鐘楼を建、幷妻木村之内ニ妙見宮を勧請仕、日拝崇敬いたし、其後神罰を遁レ、子孫只今妻木村之城主ニテ、御旗本ニ御座候、右建立之鐘楼ハ、只今社内之鐘楼ニテ、棟札ニ慶長十八年願主妻木雅楽助源家頼建立等之旨、相認御座候、尤先年ハ右家ヨリ仰渡御座候事之由申伝候





ここでも妻木伝入(貞徳)と森右近(忠政)が寺社に放火したと明記しています。
しかも、「妻木伝入と森忠政が『申し合わせて』放火した」と書いており、そちも悪よのぅ感が増しております。
前半にご紹介した『妻木戦記』との大きな違いは、『妻木戦記』では放火事件が長久手の合戦の折の天正12(1584)年だったのに対し、『由緒書』では天正3(1575)年となっております。

天正3年といえば、
森忠政は数え年6歳
ついでに妻木伝入(貞徳)は、40歳であります。
しかも、金山城主は森長可ですし、森蘭丸・坊丸・力丸兄ちゃんらもまだピンピンしていた時節であります。

「妻木伝入(40)と森忠政(6)が申し合わせて放火した」

それってありなの?いいの?
そういう場合、忠政(6)が「燃やそうぜ!」と言おうが何を言おうが、大人の伝入(40)さんが
「本当に火をつけてもいいかどうか、おうちの人を呼んで確認しようね。」
と言うべきでしょう。
それを言うならまだ『妻木戦記』の「あれは長久手の合戦の折の放火でした」設定のほうがあり得る訳で…。
でも、長久手の合戦の時に森忠政が妻木軍と行動を共にしたとはとても考えられず…。
『由緒書』のいう「申し合わせ」という表現に従うなら仮に忠政が現場にいなくても、妻木氏と連絡を取り合って指示をくだせるかも知れないとは思いましたが、森家の当主の森長可が戦死したなう。という最中に、まだ当主でもない森忠政と妻木氏とがそんなやり取りしてるのもおかしいですし。

結局、森忠政がなぜ『妻木戦記』や『妙見宮由緒書』に放火犯として妻木伝入と名前を連ねられているのか、謎が解けないままです。

なお、『由緒書』のほうの記述によれば森忠政も妻木伝入も神罰を受けて何らかの禁(神様に制限をかけられた?)があったので両人ともに反省し、お詫びを祈ったそうです。
「妻木城主は当社内に鐘楼を建て、妻木村にも妙見宮を勧請して日拝崇敬したから神罰を逃れて子孫は今、妻木村の城主で旗本でございますよ。」
と書いてありますが、一方、妙見宮へのお詫びに何もしていない(由緒書きに何も書かれていない)森忠政はといえば、のちに美作国主になったのでありました。

結局、状況的に内々神社(妙見宮)に放火するのに無理があるはずの森右近忠政の名がどうして出てきているのかわからないまま、事件は迷宮入りです。
なんかスッキリできるいい史料が他にありませんかね。

Σ(゜□゜;
はっ!まさか!これは!
妻木伝入:「放火してよろしいものか。」
妻木伝入:(その場にいない忠政のクチマネで)「いいよー。」
妻木伝入:「森家と申し合わせ終了。森家と一緒に放火。」
いや、まさかそんな…。

コナン君でもいいです(各務兵庫に麻酔針プスッ!)、どなたか、この謎を解いてください。


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いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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