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今年2016年7月2日(土)に森忠政公の菩提寺であります本源寺(岡山県津山市)で万灯会が催されます。
出雲街道から本源寺さままでの道の両側と御霊屋、裏庭等々にも灯りがつく予定だそうです。

また、後日になりますが、7月7日(木)の森忠政公のご命日には法要も執り行われます。
いただいた情報とチラシ画像とをアップしておきますね。

個人的には”精進カレー”というのがどういうものなのか気になります(容赦なく肉ぬきという事なのでしょうか…(^_^;))。

美作国万灯会
・日時:2016年7月2日(土)18:00-21:00
・会場:本源寺
・拝観料:無料
・献灯料:300円(中学生以上)
・無料演奏会、出店あり

本源寺 特別拝観
・日時:2016年7月1日(金)-7日(木) 10:00-16:00(最終日は午後のみ)

津山藩主 森忠政公 毎歳忌法要
・日時:2016年7月7日(木)10:00-
・会場:本源寺本堂

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05/30|森家コメント(0)TOP↑
『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』にある森家関係の項目の抜き書きです。

『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』とは、膳所(ぜぜ)藩士であった寒川辰清が藩主・本多康敏の命をうけて編纂した地誌で、享保19(1733)年に完成したものです。
以下、『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』より引用。

〔宇佐山城跡〕
宇佐山は錦織村の西にあり。宇佐八幡社あるを以て其號となす。此古城址二町四方許、山上に樓臺等の址顕然たり。土俗云ふ鈴木三左衛門居城の址なりと、臣按ずるに非也、元亀元庚午年五月九日信長暇を義昭に告げ京を出でゝ近江に到り、城を宇佐山に築き森三左衛門可成をして之を守らしむ。浅井長政、朝倉義景等之を攻む。同九月可成戦死の後、其臣武藤五郎右衛門及肥田玄蕃等暫く在城すと雖も戦死して遂に落城せり。 森三左衛門の事跡は坂本来迎寺の條下に記す。
〔森三左衛門墓〕
来迎寺境内にあり。森三左衛門尉源可成の墓なり。法名・心月浄翁居士といふ。嘗て可成、元亀元年九月二十日坂本合戦の時瀬戸在家の邊にて戦死す。来迎寺の住僧眞雄上人遺骸を此寺に瘞む。瀬戸は東南寺の邊をいふ。三左衛門可成は美濃蓮臺の郷士越後守重可が子也。されば朝倉の大勢宇佐山へ攻めかゝる堅田の城より織田九郎信治城主青地駿河守泰資、宇佐山の後詰せんと馳せ向ふ。三左衛門信治を打せてかなはじと打て出で朝倉勢と挑戦、朝倉孫三郎景健、山際より横鎗についてかゝる。浅井石見守・大野木土佐守長濱より渡海し是も横鎗に攻掛りければ、・織田・青地以下、前後の敵に包まる。森三左衛門今は是までと北庄土佐守景行が備へに駈入り、遂に石田十蔵が為に打たる。織田九郎にも大陽寺右馬介景春が陣に駈入り、五十嵐小太郎と指違へて死す。青地駿河守は浅井長政が備への前にて戦死せり。
〔安土古城址〕
安土山に在り。安土山高さ二町許、廻り一里半余、頂上に天守あり、今に其跡石垣等の跡顕然たり。本丸二ノ丸三ノ丸等間数高低詳に知れがたし。家康公及羽柴秀吉・武藤助左衛門・青木加賀右衛門・中條将監・武井肥後・織田信忠・長谷川竹・織田七衛・森蘭丸・福富平左衛門・市橋九郎左門・菅谷九右衛門・堀久太郎等が屋敷跡在り。安土山の内に薬師山・笛吹尾・源左衛門鼻・梅ケ谷・あみが鼻・われ尾・永尾等云ふ処あり。悉く書し難し。抑此城は織田信長下知して惟任五郎左衛門長秀奉行す。
〔桐原郷(きりはら)〕
安養寺村・東村・古川村・森尻村・中小森村・池田村・竹川村、以上七村をいふ。
〔薬師村〕
七里村の東にあり、小口村より六七町北也。昔は薬師寺とて大寺これあり、坊も六坊ありといふ。今僅かに一坊を存す。

以上、引用終了。

管理人の補足です。
〔宇佐山城跡〕宇佐山城は落城していないのに「落城せり。」と書いているし、武藤五郎右衛門や肥田玄蕃らも戦死していないのに「戦死して」しまったことになっているなど、文中には間違いもありますがそのまま書き出してみました。
〔森三左衛門墓〕森可成は比叡辻で戦死していたとされますが、ここでは「瀬戸在家の辺=東南寺あたりで死んでた」とピンポイントで書いていますね。いちおう、比叡辻の道筋にあたりますね。 瀬戸在家の辺り・・という情報は現地の人に伝承の聞き取り調査でもした結果でしょうか?何も書いていないので信憑性はわかりません。(^_^;)謎
〔桐原郷〕〔薬師村〕は森蘭丸の所領の一部です(残りの所領「西山上」と「須恵田」の記述は見つけきれず)ので、ついでに書き出してみました。





05/29|森家コメント(0)TOP↑
Google map 【新・森家史跡めぐり】 県別一覧表

全国の森家史跡を県別にマッピングしています。
(未作成)となっている県も随時公開していきます。
こうして一覧表(このページ下方)にまとめてみると未作成の県ばかりですね。(^_^;)
すでに作成済みでリンクをはっている県についてもまだピンを立てていない史跡が沢山ありますので、それも今後追加していきます。
未作成の県はでき次第このページにリンクをはりますね。
更新状況は「RANMARU!」サイトの更新履歴などでお知らせします。

なお、「RANMARU!」サイト内の森家史跡(文字&画像)の紹介ページはこちらです。
→「森家史跡



Google map 【新・森家史跡めぐり】 県別一覧表
県名をクリックするとGoogle mapが表示されます。

《関東》
栃木県
千葉県
東京都
神奈川県

《中部》
新潟県
福井県
山梨県
長野県
■岐阜県1 兼山
■■ (岐阜県可児市)
岐阜県2 東濃エリア史跡
■■ (多治見市、土岐市、瑞浪市、恵那市、中津川市)
岐阜県3 中濃エリア史跡
■■(美濃加茂市、可児市、関市、美濃市、加茂郡、可児郡、郡上市 )
岐阜県4 岐阜・西濃エリア
■■(岐阜市、羽島市、各務原市、山県市、本巣市、羽島郡、本巣郡)
■■(大垣市、海津市、安八郡、揖斐郡、不破郡、養老郡 )
岐阜県5 飛騨エリア
■■ (飛騨市)
 (おまけ:「多治見」)
静岡県
■愛知県(未作成)
三重県

《近畿》
滋賀県
 (おまけ:姉川古戦場めぐり
京都府1(京都中心部)
京都府2(京都市伏見区、長岡京市、宇治市、亀岡市)
大阪府
■兵庫県(未作成)
 (おまけ:「兵庫Ⅱ」)
和歌山県

《中国》
■岡山県
広島県

《九州》
福岡県
佐賀県
鹿児島県


《海外》
韓国



05/17|森家コメント(0)TOP↑
ほとんど自分用の備忘録です。(^_^;)

現在、長野市立博物館で開催中の企画展『川中島を行きかった武将たち』(2016年4月23日(土)- 6月5日(日))にあわせて刊行された図録『海津城の主たち』を入手しました。
その中で私が気になったこと、参考にしようと思ったことをここにメモしておきます(ただし、イケメン森家の事柄に限る)。

鶴ちゃんの、あっちむいてホイ!!
図録は森家の鶴丸紋が逆向き表示(鶴ちゃんが右むいちゃってます)になっていたりします。
該当ページは今ならPDFで閲覧できます。長野市博物館さんサイト→『海津城の主たち』目次
ぐはっ!何かのミス?!見ていて何か落ち着かない!!!
同じページに描かれている上杉家や松平家や真田家の家紋は左右対称なので、間違って家紋が反転されていても森家にしか影響しないという…クッ!
森家の鶴丸紋は、2匹の鶴を向かい合わせた状態にして描かれることもあるため、『右向け右!』パターンも、あるといえばあるのですが、通常は左向きです。単体で登場した場合は鶴ちゃんは常に左向きです。昔は「左」を「右」よりも上位に置く認識だったから左向きがスタンダードなのかなーとか勝手に思ったりしてます(←私の思い込みであり、嘘かもしれません。)

森長可さんにも、あっちむいてホイ!!
また、『海津城の主たち』の中にある「海津城の城主ほか変遷」の欄の『森長可』は『本能寺の変で逃げ帰る』とかいう一言で終わってました。
もっと森家に愛を注いでください長野県民…。
森長可は誰にでも優しく(好きな相手限定、あとは死ね)立派な武将なんですよ…。

森忠政の待望の城
海津城は現在の「松代城」という城名になるまで色々とネーミングを替えられています。

海津城(武田信玄が命名。)

待城(森忠政が命名)

松城(松平忠輝が命名)

松代城


この件についても図録に触れてありましたので引用しておきます。


(以下、『海津城の主たち』より引用)
・永禄ノ初、新城ヲ築テ海津城ト名ク、慶長ノ初メ待城、又、松城ト改ム、正徳以降松代ノ字ヲ用ウト云 『松代地誌稿』

・武田信玄は城を造り、その名を海津城とした。その後、慶長の初めには城の名前を「待城」もしくは「松城」としたという。そして江戸時代の正徳年間には、「松代」と地名が変わり、城の名は「松代城」となったというのである。城の名である「待城」「松城」がどこに由来するのかは諸説ある。戦国時代に使われていた「海津」の地名が江戸時代になって城の名とともに「松代」にかわったということができる。

・森忠政は、兄の森長可が織田信長のもとで海津城に入ったが、夢を果たせずに退去したことに鑑みて、待ちに待った城という意味で、「待城」と名づけたとされる。

・松平忠輝は松平の城という意味で、「待城」を「松城」にしたという。

(以上、引用終了)



森忠政が海津城を「待城」と改めたというのは上記の説のほかに、
「領民は我(憎き森長可の弟)がくるのを待っていただろうから。」
とかいう意味合いだったという説もあります(中二病とか謂うなかれ)。

先日、津山の森家関係の方とお話していて、面白いお話を伺いました。
「『待城』の改名は、森忠政が徳川からの恩賞を『待ってる』っていう、徳川に向けたメッセージだったのではないのでしょうか。実際に森忠政は関ヶ原の合戦(慶長5年・1600年)が終わって美作国を拝領するまで(慶長8年・1603年)恩賞をもらえないまま川中島でそのままにされていたのですから…。」
そういえばそうだな、関ヶ原に行きたくて行きたくてたまらない森忠政を
「大丈夫だから」
「親父(家康)にもちゃんと言っておくから大丈夫だから」
と徳川秀忠に諭されて、そのまま真田の押さえとして信州に取り残されてましたっけ…。そしてさらにそのまま…放置プレイだったのか…。
このお話、なんだかすごく説得力があると思ってすごく心に残っております。
また、「待城」については「たいじょう」という「ふりがな」を振られることが多いので何度かこのことについで森家仲間の間でも話題になりましたが、森忠政の「待ってた」理論と、のちに松平がこの城を「松城」と漢字変換したことも考えれば素直に訓読みで「まつしろ」でよろしいのではないかと考えています。

国宝に森長可?!上杉景勝書状
『海津城の主たち』図録には
「29 上杉景勝書状 米沢市上杉博物館蔵 国宝」
の書状が掲載してあります。
図録をスキャンしてここに掲載すると犯罪者になってしまうので、所蔵先の米沢市上杉博物館サイトにあった書状のリンクを掲載しておきます。


[伝国の杜]米沢市上杉博物館(外部リンク)
【国宝】上条冝順宛 上杉景勝書状 上杉景勝 天正10年(1582)4月3日 (外部リンク)


この書状について図録『海津城の主たち』の解説には
『天正十(一五八二)年四月三日付の書状。上杉景勝が上条宜順に対して諮問したもの。内容は、天正十年に織田信長の軍として森長可が北信濃を占領したが、長沼城のことや越中の須田満親が撤退を余儀なくされた状況にあることをふまえ、その備えをどうするかを尋ねる。』
と、あったので、国宝の書状に森長可のことがっ???!!!
と一瞬は興奮しましたが、書状の中には「森長可」の名は直接には書いていないようですね。
書下し文は『信濃史料』にありました。
『信濃史料 巻十五』上杉景勝書状 長沼城ノ武主ヲ諮ル

あ、図録『海津城の主たち』は郵送してもらうことも可能です。

長野市立博物館(外部リンク)
長野市立博物館企画展『川中島を行き交わった武将たち』(外部リンク)


それにしても、やっぱり鶴丸紋が右向きなのが気になります…。
05/08|雑記コメント(0)TOP↑
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うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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