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ほとんど自分用の備忘録です。(^_^;)

現在、長野市立博物館で開催中の企画展『川中島を行きかった武将たち』(2016年4月23日(土)- 6月5日(日))にあわせて刊行された図録『海津城の主たち』を入手しました。
その中で私が気になったこと、参考にしようと思ったことをここにメモしておきます(ただし、イケメン森家の事柄に限る)。

鶴ちゃんの、あっちむいてホイ!!
図録は森家の鶴丸紋が逆向き表示(鶴ちゃんが右むいちゃってます)になっていたりします。
該当ページは今ならPDFで閲覧できます。長野市博物館さんサイト→『海津城の主たち』目次
ぐはっ!何かのミス?!見ていて何か落ち着かない!!!
同じページに描かれている上杉家や松平家や真田家の家紋は左右対称なので、間違って家紋が反転されていても森家にしか影響しないという…クッ!
森家の鶴丸紋は、2匹の鶴を向かい合わせた状態にして描かれることもあるため、『右向け右!』パターンも、あるといえばあるのですが、通常は左向きです。単体で登場した場合は鶴ちゃんは常に左向きです。昔は「左」を「右」よりも上位に置く認識だったから左向きがスタンダードなのかなーとか勝手に思ったりしてます(←私の思い込みであり、嘘かもしれません。)

森長可さんにも、あっちむいてホイ!!
また、『海津城の主たち』の中にある「海津城の城主ほか変遷」の欄の『森長可』は『本能寺の変で逃げ帰る』とかいう一言で終わってました。
もっと森家に愛を注いでください長野県民…。
森長可は誰にでも優しく(好きな相手限定、あとは死ね)立派な武将なんですよ…。

森忠政の待望の城
海津城は現在の「松代城」という城名になるまで色々とネーミングを替えられています。

海津城(武田信玄が命名。)

待城(森忠政が命名)

松城(松平忠輝が命名)

松代城


この件についても図録に触れてありましたので引用しておきます。


(以下、『海津城の主たち』より引用)
・永禄ノ初、新城ヲ築テ海津城ト名ク、慶長ノ初メ待城、又、松城ト改ム、正徳以降松代ノ字ヲ用ウト云 『松代地誌稿』

・武田信玄は城を造り、その名を海津城とした。その後、慶長の初めには城の名前を「待城」もしくは「松城」としたという。そして江戸時代の正徳年間には、「松代」と地名が変わり、城の名は「松代城」となったというのである。城の名である「待城」「松城」がどこに由来するのかは諸説ある。戦国時代に使われていた「海津」の地名が江戸時代になって城の名とともに「松代」にかわったということができる。

・森忠政は、兄の森長可が織田信長のもとで海津城に入ったが、夢を果たせずに退去したことに鑑みて、待ちに待った城という意味で、「待城」と名づけたとされる。

・松平忠輝は松平の城という意味で、「待城」を「松城」にしたという。

(以上、引用終了)



森忠政が海津城を「待城」と改めたというのは上記の説のほかに、
「領民は我(憎き森長可の弟)がくるのを待っていただろうから。」
とかいう意味合いだったという説もあります(中二病とか謂うなかれ)。

先日、津山の森家関係の方とお話していて、面白いお話を伺いました。
「『待城』の改名は、森忠政が徳川からの恩賞を『待ってる』っていう、徳川に向けたメッセージだったのではないのでしょうか。実際に森忠政は関ヶ原の合戦(慶長5年・1600年)が終わって美作国を拝領するまで(慶長8年・1603年)恩賞をもらえないまま川中島でそのままにされていたのですから…。」
そういえばそうだな、関ヶ原に行きたくて行きたくてたまらない森忠政を
「大丈夫だから」
「親父(家康)にもちゃんと言っておくから大丈夫だから」
と徳川秀忠に諭されて、そのまま真田の押さえとして信州に取り残されてましたっけ…。そしてさらにそのまま…放置プレイだったのか…。
このお話、なんだかすごく説得力があると思ってすごく心に残っております。
また、「待城」については「たいじょう」という「ふりがな」を振られることが多いので何度かこのことについで森家仲間の間でも話題になりましたが、森忠政の「待ってた」理論と、のちに松平がこの城を「松城」と漢字変換したことも考えれば素直に訓読みで「まつしろ」でよろしいのではないかと考えています。

国宝に森長可?!上杉景勝書状
『海津城の主たち』図録には
「29 上杉景勝書状 米沢市上杉博物館蔵 国宝」
の書状が掲載してあります。
図録をスキャンしてここに掲載すると犯罪者になってしまうので、所蔵先の米沢市上杉博物館サイトにあった書状のリンクを掲載しておきます。


[伝国の杜]米沢市上杉博物館(外部リンク)
【国宝】上条冝順宛 上杉景勝書状 上杉景勝 天正10年(1582)4月3日 (外部リンク)


この書状について図録『海津城の主たち』の解説には
『天正十(一五八二)年四月三日付の書状。上杉景勝が上条宜順に対して諮問したもの。内容は、天正十年に織田信長の軍として森長可が北信濃を占領したが、長沼城のことや越中の須田満親が撤退を余儀なくされた状況にあることをふまえ、その備えをどうするかを尋ねる。』
と、あったので、国宝の書状に森長可のことがっ???!!!
と一瞬は興奮しましたが、書状の中には「森長可」の名は直接には書いていないようですね。
書下し文は『信濃史料』にありました。
『信濃史料 巻十五』上杉景勝書状 長沼城ノ武主ヲ諮ル

あ、図録『海津城の主たち』は郵送してもらうことも可能です。

長野市立博物館(外部リンク)
長野市立博物館企画展『川中島を行き交わった武将たち』(外部リンク)


それにしても、やっぱり鶴丸紋が右向きなのが気になります…。
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05/08|雑記コメント(0)TOP↑
大昔に購入したプレジデント誌を読みなおしていたら、私にとって初めて見るような話が書いてあったので自分用のメモでここに貼っておくことにします。
Σ(゜□゜;



以下、『プレジデント1992年2月号』
「信玄と謙信(作家:小林久三)」”森蘭丸の本当の役割とは”から引用


 信長の資金源はおそらく濃飛一帯の金山であったのだろう。本能寺の変で、信長に殉じた森蘭丸は美濃金山の城主であった。濃飛両国の境に位置する美濃金山は、古代から金を産出していたことは、「延喜式」にも記されている。また乗鞍岳も古名は阿宝山(あわやま)と称し、鉄、金銀の産地だった。
 江戸中期に、古代からの産鉄の方法やしきたりを、みずからタタラ作業に従事した体験とともに、「鉄山秘書」を書いた下原重仲は、森蘭丸の弟で、津山藩主だった森忠政の孫の系列に属する人物である。
 森氏は、産鉄・金工族とみられ、森聞丸は信長の産金を担当するとともに、鉄を管理していたともみられ、その意味では、彼を信長の単なる寵童とする見方は、修正する必要があるだろう。甲斐や越後の産金量の情報を捕捉して、信玄や謙信を、信長の最大のライバルとしたのは、もしかすると森蘭丸かもしれない。
(以上、引用終了)



当時の美濃金山を含む濃飛一帯って織田信長を潤すほどにゴールドラッシュだったの(初耳)?
森蘭丸は美濃金山の城主…って言いきられてるし、森氏は産鉄・金工族とはどこから出てきた話し(初耳)?
蘭丸が鉄を管理?!アイアム・アイアンマン?
下原重仲が津山藩主だった森忠政の孫の系列に属する人物(初耳)?

私が無知なだけかも知れませんが、森家やその周辺の記録にはまったくない話しだと思いますし、ここに出された内容の根拠に見当がつきませんでした。いや、本当に私が無知なだけなのかも知れませんけど…。
「延喜式」に美濃金山が金の産出地だったという記述があるのかも含めて、いつか時間がある時に調べてみたいと思います…ご本人に確認できれば一番ですが、これを書かれた小林さんは既に故人なんですね(涙)。

ああ、森蘭丸は今日も砂浜で磁石をひきずって砂鉄採り…(変な想像)。


07/31|雑記コメント(0)TOP↑
岐阜県可児市兼山の和菓子屋さん『梅園』さんで昔売っていた和菓子『森三左衛門可成』のパッケージです(今は取り扱っていないと思います)。
栗ようかんだったかな?
白肌美人の森可成公パッケージとなっております。
一緒に描かれているお城はやはり金山城なのでしょうか?






07/28|雑記コメント(0)TOP↑
20140706

 かれこれ10年以上前に兼山(岐阜県可児市)の和菓子屋さん(梅園さん)で購入した『森武蔵あめ』のラベルです。

『森武蔵あめ』本体は、たしかナッツ入りの茶色い飴だったような気がしますが、10年以上前のことなので記憶ミスで嘘を書いてるかもしれません。とりあえず、美味しかったです。

今はもう販売していないので、残念です。
飴を1個くらい食べずにとっておけばよかったのですが…。




07/06|雑記コメント(0)TOP↑
 最近は、実家から持ち帰った雑誌の山をひたすら裁断の上、スキャンして電子書籍化させて外付けハードディスクに保存する作業をしています。

『歴史読本』、『歴史と旅』、『歴史研究』など、場所をとる分厚い雑誌が部屋からなくなると、まぁ、なんともスッキリしました。



『歴史と旅 臨時増刊 日本武将総覧 (S59/6)』

日本武将総覧 歴史と旅 臨時増刊 1984年 6月号日本武将総覧 歴史と旅 臨時増刊 1984年 6月号
(1984/06/05)
鈴木 亨

商品詳細を見る



今回スキャンした雑誌の中に含まれる『歴史と旅 臨時増刊 日本武将総覧 (S59/6)』は、私が森長可の存在を初めて認識することになった思い出深い一冊です。

まだ、歴史にもハマっていなかった子供のころ、祖父母の家にあったこの雑誌を遊びに行くたびに読んでいました(祖父母の家には遊び道具も何もなくて、他にすることないし…。)

雑誌の中で、森長可の生涯は半ページでまとめられていましたが、その中の一文、

『しかし蘭丸以下三人の弟を本能寺で失っていた長可としては、このとき骨肉相食み、殺るか殺られるかしかない残酷な戦国の世と侍稼業につくづくいや気がさしたのにちがいない。 いかにも人間らしい本音を表わした遺言状が、この時に書かれているからである。』


に、ヤラレテしまいました…。
そして森家のことをさらに調べれば調べるほどドツボにはまって今にいたるのですが、人生何がきっかけでどうなるのか、本当にわからないものです。

社会人になってから、祖母にこの雑誌をもらって帰りました。
今は、私にとってはこの雑誌の中に森家の真新しい情報も無くなったのですが、かといって捨てるに忍びず、電子書籍化しました。
06/21|雑記コメント(0)TOP↑
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Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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