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金山城を犬山城へ移築したことが書かれた古文書の“写本”が『なごやコレクション』のサイトにありました。

【なごやコレクション】
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/top



正事記(1665年) 津田藤兵衛
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00000070
29ページに兼山(金山)城のことがでてきます。
金山(兼山)城移築のくだりの原文を掲載しておきます。

『犬山昔は三光寺を本城とせられ今の天守の有所は白山権現立たまひけるよし。中比(ごろ)、白山をハ城より東の丸山へ移し其跡を本丸に今はなり、天守三重也。其昔は二重也しか太閤薨御之後、其の時の城主小笠原和泉守吉次の御代に濃州兼山の古城を引取て立直し三重になり、大手口惣構も其時廣く成たる由申傳ふるなり』



犬山里語記(1817年) 肥田信易
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001300

58ページの『石川備前守貞清』の項目に金山の城を木曽川に流して犬山に移して天守を建て櫓を造った件が記載されているのでそのくだりの原文を記載しておきます。森左近とあるのは「右近」が正しいヨヨヨ。

慶長四年己亥秋、徳川公、金山之城主森左近大輔忠政を信州川中島へ転して金山の城ハ毀(こわし)て天守・櫓・殿宇・諸士之居宅迄(まで)石川光吉ニ賜る。翌年庚子之年之夏是を木曽川に下し悉く犬山ニ迁(うつ)す、天守を建て櫓を造、砦城とす。


95ページの『寺院 青竜山瑞泉寺』の項目に兼山(金山)城の門が寄進された件が記載されていますのでそのくだりの原文を掲載しておきます。

一、惣門、里俗、黒門と云。石川備前守御寄進之由。是ハ濃州兼山古城之御門なる由聞へける。


なお、52ページから54ページの『(御城主) 一、池田紀伊入道勝入斎』の項目に森長可が登場したので、長くなりますがせっかくなので原文を掲載しておきます。
いや、でも肝心の討死の場面が「詳しくはWEBで!」のノリで割愛されていること途中で気づいてショック(詳しくは著者が『犬山むかし物語』に書いたそうです)!…でも、せっかく活字にしたので掲載しておきます。
一、池田紀伊入道勝入斎
再主也。天正十ニ年三月十三日夜より保城二ヶ月。此時、秀吉公之大軍、宇留馬之渡りに藤橋を掛て犬山ニ入城す。其勢、凡十二万五千余騎。国侯内大臣ハ徳川公へ援兵を乞て小牧山を本陣とし、是ニ対する陣営ハ、犬山了義山徳授寺之殿堂幷塔頭之院々を借り取壊し、青塚村ニ茶臼山を築対陣とす。其外ひがしハ二重堀、村岩崎・小松寺山・外窪内窪の山々に諸勢の砦を拵、半途成楽田ニハ堀を築玉ふ。于時濃州金山(今、兼山といふ)城主森武蔵守ハ、犬山の城を池田ニ奪レたるを口惜く思ひ、如何して此恥を雪んと思ふ処ニ、秀吉公より尾藤甚右衛門使者として被仰越けるハ、今般尾張国へ発向、池田・森之両氏味方ニ属し玉らハ、幸ひ美濃・尾張・三河、此三ヶ国ハさし出置候。いつれニも両氏之軍功次第所領ニ可相渡旨
御書到来故、秀吉公犬山へ入城以前に(?)一働して敵味方之眠を醒せんと犬山へも不申談、善師野通より羽黒村旭之里ニ出張して、大川を前ニ当て陣営を構たり。かかる所へ小牧山より酒井左衛門大夫、所々順見に出玉ふ折から八幡林ニ旗さし物の陣営有るハ金山之城主森と見受たり。公ノ訴て先つ此敵を追払んと言上して、三月十七日早天より三、四将具して八幡林ニ向ひ玉ふ。森軍、利あらずして、居城金山へ敗北す。家臣野呂助左衛門と云者口惜思ひ、主君之恥を雪んと乱軍ニ駈入て戦死す。其子助三郎も戦死す。今に野呂塚といふあり。羽黒の合戦敗北と聞て犬山城中騒動す。仍て一鉄斎、軍勢を引て犬山出崎ニ出張す、今正久寺之前之所成と云。委敷ハ予が著述したる犬山むかし物語ニ筆し侍る。一説ニ此日
秀吉公犬山ニ在城と云事有。公ハ廿一日之入城也。此事不詳。秀吉公大軍を引て夫々之砦・陣所の配分有。楽田を対城とし、犬山を根城として犬山ニ御逗留有り。町人丸屋平兵衛・大阪屋吉次と云者、兼て公の御懇命を蒙りたるもの也。平兵衛、登城して御目見仕候処、御短刀一腰拝領仕候。吉次も無事成や心得呉よと上意あり。下城之折ニ吉次ニ申伝へ候処、吉次も登城して御目見あり。軍扇一握拝領す。両人共、子孫ニ伝へ侍る重宝也。可惜、明和之頃ニ両品共紛失して、今其家ニなし。長久手の御陣後、秀吉公御退城ニて加藤遠江守へ当城を御預被遊候。


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09/10|森家コメント(0)TOP↑
『麒麟がくる』の影響で、森蘭丸を討ったとされる「四王天又兵衛」のことが丹波地方(出身地)や福井地方でニュースにあがってくるようになりました。
福井県文書館に所蔵された史料で四王天又兵衛がらみで森蘭丸のことがでてきたのでここにリンクを紹介しておきます。


『諸士先祖由之記 二』
享保6年(1721)松平文庫

四王天又兵衛政実
『天正十年平信長公御生害之砌森蘭丸長康ヲ討取』と書いてあります。(↓掲載ページ 福井文書館サイトに移動します)
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1033092-1-p19

(以下、福井県文書館より引用)
「諸士先祖由之記」 享保6年(1721)
松平文庫(当館保管)
享保6年(1721)、福井藩主・松平吉邦の命を受け、中級以上の藩士が提出した先祖由緒書を集成したものです。
四王天家の元祖・又兵衛政実は明智軍に属し、本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとしています。
(引用終了)




その他 福井文書館サイト様 記事へのリンク

『越前と明智光秀 -"伝承"をたどる-』
展示箇所は、光秀方の安田作兵衛と信長方の森蘭丸との戦闘場面で、この後左手から登場した四王天又兵衛が蘭丸の首を取りました。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/20200124m.html

光秀と四王天家
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/4.pdf

『文書館ふくい』no.118
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/611013.pdf
■えっ?あの舟橋役の家が!?■
四王天又兵衛政実は、本能寺の変において、明智光秀方として織田信長方と戦い、信長方の小姓森蘭丸を討ち取ったといわれています。



「ちょ、ちょっと待ってよ。
森蘭丸を討ったのは安田作兵衛さんだよ!
ぼく、ちゃんと見てたもん!!」

とおっしゃる方もいらっしゃると思います。
私もそう認識しているのですが、史料的価値の低い『絵本太閤記』に四王天又兵衛が登場します。(ほかにも出てきたらご教示ください)

20200430a.jpg

『絵本太閤記』に登場する『森蘭丸討死の図』です。
まさに森蘭丸が安田作兵衛の股間に鑓を刺さんとする瞬間です。
この画面左手にいるのが四王天又兵衛です。赤丸で囲んだヤツがそうです。森蘭丸に向って走り寄ってきています。嫌な予感しかしません。
絵本太閤記のこの場面の内容を軽くご紹介しておくと、

【前回までのあらすじ】
明智光秀の本能寺襲撃で織田信長も森蘭丸も大ピンチ!明智の三羽ガラスと呼ばれた安田作兵衛が、しつこく信長を攻撃してくるよ。それに怒りしんとうで安田作兵衛に雷を落としたのが森蘭丸だったんだ。森蘭丸は、「森蘭丸を見知ったるか!」と背後から作兵衛に鑓をくりだしたんだよ。

【『森蘭丸討死の図』ダイジェスト現代語訳】
森蘭丸と安田作兵衛との戦闘で作兵衛は後ろ飛びで庭に飛んだら溝にあおむけに落ちてしまった、すかさず蘭丸は作兵衛に鑓を突き下ろした。
作兵衛はその刺された鑓に取り付いて起き上がり抜いた刀で森蘭丸に切りかかった。
素肌姿の蘭丸は両足を切り取られてしまった。そして四王天又兵衛、満を持しての登場です!

素肌の蘭丸両足を切落され
哀れむべし大剛の勇士
枯木を倒すごとくとふど転ぶを
四王天又兵衛 走寄(はしりよ)りて首を取りけり




つまりは、真偽はともかくこの内容によれば
安田作兵衛が森蘭丸を倒した後に
四王天又兵衛が駆け寄ってきて蘭丸の首を取った!!

ということのようです。
安田作兵衛が「俺のやろが!!!」とか怒らなかったのでしょうか?
歴史は黙して語りません。
04/30|森家コメント(0)TOP↑
国立国会図書館デジタルコレクションに『寛政重修諸家譜』の写本が掲載されていたので、
「巻第百二十六 義隆流 森」
「巻第百二十七 義隆流 森」
が掲載されている第三十冊をリンクしておきますね。

『寛政重修諸家譜 第三十冊』義隆流 森家
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577322/1

森可成についての記載ページ

森可隆・長可(長一)についての記載ページ

森蘭丸・坊丸・力丸についての記載ページ

森忠政についての記載ページ

20191205a.jpg
※この画像は国立国会図書館ウェブサイトから転載したものです。
12/05|森家コメント(0)TOP↑
『GIVING UP THE GUN: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879』というノエル・ぺリン(Noel Perrin、アメリカ人、1979年)の著作を読んでいたら、予期せず森長可が出てきたのでびっくりしてしまいました。
この書籍の内容自体は、『16世紀後半の日本は西欧国にあらずして唯一鉄砲の大量生産に成功して、鉄砲大国になった。なのに、江戸時代になると日本人はなぜか鉄砲を捨て、再び刀剣に回帰した。』というジャパニーズ軍縮の奇跡を検証するもので、戦場で刀を振るう武将・森長可と鉄砲で応戦する下級武士(足軽)が引き合いに出されています(汗)。
内容の正誤はともかくも(…どうもこの著者は、森長可が鉄砲に刀で応戦しようとしていたと考えて書いたのではないのか…と、いう不安にかられます。著者の想像による場面を検証材料にしたりして色々とツッコミたくはなるのですが)抜き書きしておきます。
なお、日本語訳は私がしました…たぶん、これで合ってると思います

(原題)『GIVING UP THE GUN: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879』
(日本語訳)『銃を捨てる ~日本の刀への回帰~1543-1879』ノエル・ペリン



(英語原文)p.25-26
This attempted division of warfare into upper-class fighting with swords and lower-class fighting with guns did not, of course, work. The two methods kept colliding. The death of Mori Nagayoshi,in 1584, is typical. Lord Mori, who was wearing full armor with a kind of white silk jupon over it, and who thus made an extremely conspicuous target, persisted in riding out in front of his troops to rally them. He probably waved his sword. A matchlockman took careful aim at his head and knocked him off his horse dead, aged twenty-seven.

(日本語訳)
身分の高い武士の「刀」による戦い、下級武士の「鉄砲」による戦い、という戦い方の住み分けの試みはもちろん、うまくいかなかった。刀か、鉄砲か、この二つの武器は衝突し続けた。1584年の森長可の死はその典型である。武将・森長可は甲冑に身を固め、その上に白い絹の陣羽織りを羽織っていたので極端に目立つ攻撃目標となった。彼は自軍を奮い立たせるために、その先鋒に立つことにこだわっていた。恐らく彼は刀を振りかざしたであろう。鉄砲隊の男が長可の頭に注意深く狙いを定め、馬上の長可を撃ち落とした。享年27歳だった。



(英語原文)p.80
The idea of turning back the clock has, of course, occurred to men in the West many times. Bayard___who, like Lord Mori Nagayoshi, died of a bullet wound___ would have been only too happy to.

(日本語訳)
時計が逆戻りすればという思いは、もちろん西洋の人間にもたびたび去来した。森長可と同様、ベイヤードも弾丸の傷がもとで亡くなったが、時間が戻ったならどんなにか幸せであっただろう。



貼り付け方がよくわからないくせに、google books のページを貼り付けておきます。


Giving Up the Gun: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879
by Noel Perrin
05/05|森家コメント(0)TOP↑
前回に引き続き、また阿夫志奈神社(岐阜県加茂郡川辺町上川辺)の話題になります。

→前回ブログ『阿夫志奈神社と森蘭丸と宇宙と

20180603d.jpg
阿夫志奈神社(あぶしなじんじゃ)
この境内の北東には、米田城主・肥田玄蕃の息子である長寿丸の墓があります。
やぶ蚊に刺されつつ、お参りしてまいりました。

20180603c.jpg
肥田長寿丸の墓
言い伝えで、長寿丸の墓とされてきたものです。
側にあった説明看板の内容を下に書きだします。
20180603e.jpg



(説明看板より引用)

肥田玄蕃允の息子 長寿丸の墓

天正十年六月兼山城主森武蔵守は軍勢を率いて福島城に攻め寄せた。その夜福島城では祝事が終わり家中退出した後であった。玄蕃允は敵情を知ると応戦を諦め、二、三人の家来と奥方を連れて天子の渡しまで脱出した。
一方 馬串山城に居た長寿丸は父の居る福島城の異変を聞きつけ、家来を連れて城に駆けつけた。しかし時既に遅く、父玄蕃允は城を落ちのびた後であった。長寿丸は追い来る兼山勢を斬り抜けて、父母の後を追ったが、後から鉄砲で左脇腹を撃ち抜かれた。重傷を負いながらも長寿丸は、天子の渡しで父母に追いつくと、力尽きて息を引取った。主従は嘆き悲しみ「敵に首を渡せば一門の恥」と言うと船番が「ここは天子野と言う所で建仁の昔岐阜に移られた二階堂山城守行政殿の居城跡です。此の尊い土地に葬られたがよいでしょう」と言うので、玄蕃允は涙乍(ながら)に此の地に長寿丸を葬った。
奥方は悲しみと疲労で倒れたが、天王様のお手水を頂いて息を吹き返した。奥方は上川辺にかくまわれている中に乙姫神社を再建し、深く信仰した。
勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった長寿丸は此の地に静かに眠っている。
「肥田軍記に依る」 阿夫志奈神社特別調査委員会

(引用終了)


説明にあるとおり、”勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった”長寿丸はこの神社の杜の中で静かに眠っているのですが、なぜかその墓の横はオシャレでファンシーなカフェ庭園なのでありました(カフェと神社の間に壁がない不思議空間)。

ときに長寿丸、二十八歳。
長寿じゃないね。
世は無常だね(森長可のせいだけど)。


わが子を失った肥田玄蕃はそのまま近隣の加治田城(親戚がいる)へ逃げ、兵を借りて再び森軍とぶつかり合うのですが、やっぱり玄蕃は森長可の敵ではなく、またしても敗退してしまいます。
調子こいた森軍に郡上八幡城まで追っかけてこられてしまうのは、それはまた別のお話。

07/09|森家コメント(0)TOP↑
プロフィール

うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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