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『GIVING UP THE GUN: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879』というノエル・ぺリン(Noel Perrin、アメリカ人、1979年)の著作を読んでいたら、予期せず森長可が出てきたのでびっくりしてしまいました。
この書籍の内容自体は、『16世紀後半の日本は西欧国にあらずして唯一鉄砲の大量生産に成功して、鉄砲大国になった。なのに、江戸時代になると日本人はなぜか鉄砲を捨て、再び刀剣に回帰した。』というジャパニーズ軍縮の奇跡を検証するもので、戦場で刀を振るう武将・森長可と鉄砲で応戦する下級武士(足軽)が引き合いに出されています(汗)。
内容の正誤はともかくも(…どうもこの著者は、森長可が鉄砲に刀で応戦しようとしていたと考えて書いたのではないのか…と、いう不安にかられます。著者の想像による場面を検証材料にしたりして色々とツッコミたくはなるのですが)抜き書きしておきます。
なお、日本語訳は私がしました…たぶん、これで合ってると思います

(原題)『GIVING UP THE GUN: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879』
(日本語訳)『銃を捨てる ~日本の刀への回帰~1543-1879』ノエル・ペリン



(英語原文)p.25-26
This attempted division of warfare into upper-class fighting with swords and lower-class fighting with guns did not, of course, work. The two methods kept colliding. The death of Mori Nagayoshi,in 1584, is typical. Lord Mori, who was wearing full armor with a kind of white silk jupon over it, and who thus made an extremely conspicuous target, persisted in riding out in front of his troops to rally them. He probably waved his sword. A matchlockman took careful aim at his head and knocked him off his horse dead, aged twenty-seven.

(日本語訳)
身分の高い武士の「刀」による戦い、下級武士の「鉄砲」による戦い、という戦い方の住み分けの試みはもちろん、うまくいかなかった。刀か、鉄砲か、この二つの武器は衝突し続けた。1584年の森長可の死はその典型である。武将・森長可は甲冑に身を固め、その上に白い絹の陣羽織りを羽織っていたので極端に目立つ攻撃目標となった。彼は自軍を奮い立たせるために、その先鋒に立つことにこだわっていた。恐らく彼は刀を振りかざしたであろう。鉄砲隊の男が長可の頭に注意深く狙いを定め、馬上の長可を撃ち落とした。享年27歳だった。



(英語原文)p.80
The idea of turning back the clock has, of course, occurred to men in the West many times. Bayard___who, like Lord Mori Nagayoshi, died of a bullet wound___ would have been only too happy to.

(日本語訳)
時計が逆戻りすればという思いは、もちろん西洋の人間にもたびたび去来した。森長可と同様、ベイヤードも弾丸の傷がもとで亡くなったが、時間が戻ったならどんなにか幸せであっただろう。



貼り付け方がよくわからないくせに、google books のページを貼り付けておきます。


Giving Up the Gun: Japan's Reversion to the Sword, 1543-1879
by Noel Perrin
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05/05|森家コメント(0)TOP↑
前回に引き続き、また阿夫志奈神社(岐阜県加茂郡川辺町上川辺)の話題になります。

→前回ブログ『阿夫志奈神社と森蘭丸と宇宙と

20180603d.jpg
阿夫志奈神社(あぶしなじんじゃ)
この境内の北東には、米田城主・肥田玄蕃の息子である長寿丸の墓があります。
やぶ蚊に刺されつつ、お参りしてまいりました。

20180603c.jpg
肥田長寿丸の墓
言い伝えで、長寿丸の墓とされてきたものです。
側にあった説明看板の内容を下に書きだします。
20180603e.jpg



(説明看板より引用)

肥田玄蕃允の息子 長寿丸の墓

天正十年六月兼山城主森武蔵守は軍勢を率いて福島城に攻め寄せた。その夜福島城では祝事が終わり家中退出した後であった。玄蕃允は敵情を知ると応戦を諦め、二、三人の家来と奥方を連れて天子の渡しまで脱出した。
一方 馬串山城に居た長寿丸は父の居る福島城の異変を聞きつけ、家来を連れて城に駆けつけた。しかし時既に遅く、父玄蕃允は城を落ちのびた後であった。長寿丸は追い来る兼山勢を斬り抜けて、父母の後を追ったが、後から鉄砲で左脇腹を撃ち抜かれた。重傷を負いながらも長寿丸は、天子の渡しで父母に追いつくと、力尽きて息を引取った。主従は嘆き悲しみ「敵に首を渡せば一門の恥」と言うと船番が「ここは天子野と言う所で建仁の昔岐阜に移られた二階堂山城守行政殿の居城跡です。此の尊い土地に葬られたがよいでしょう」と言うので、玄蕃允は涙乍(ながら)に此の地に長寿丸を葬った。
奥方は悲しみと疲労で倒れたが、天王様のお手水を頂いて息を吹き返した。奥方は上川辺にかくまわれている中に乙姫神社を再建し、深く信仰した。
勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった長寿丸は此の地に静かに眠っている。
「肥田軍記に依る」 阿夫志奈神社特別調査委員会

(引用終了)


説明にあるとおり、”勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった”長寿丸はこの神社の杜の中で静かに眠っているのですが、なぜかその墓の横はオシャレでファンシーなカフェ庭園なのでありました(カフェと神社の間に壁がない不思議空間)。

ときに長寿丸、二十八歳。
長寿じゃないね。
世は無常だね(森長可のせいだけど)。


わが子を失った肥田玄蕃はそのまま近隣の加治田城(親戚がいる)へ逃げ、兵を借りて再び森軍とぶつかり合うのですが、やっぱり玄蕃は森長可の敵ではなく、またしても敗退してしまいます。
調子こいた森軍に郡上八幡城まで追っかけてこられてしまうのは、それはまた別のお話。

07/09|森家コメント(0)TOP↑
阿夫志奈神社(岐阜県加茂郡川辺町上川辺)に参拝してまいりました(2018年6月3日)。
森家の故郷である兼山から車で15分ほどのところにあります。


20180603a.jpg
阿夫志奈神社(←うーん、読めない!)

阿夫志奈神社は「あぶしな じんじゃ」と読むそうです。
弘仁2年(811)、天下を襲った疫病の平癒祈祷のために建設されたと言われています。
ここには、『森蘭丸の棟札』と言われるものがあり、それを特別に見せていただきました(普段は社務所は無人となっております)。

「森蘭丸の棟札」とは?

川辺町のサイトで『川辺町史』(平成8年)を閲覧することができ、「森蘭丸の棟札」についても説明されています。
棟札画像もここでチェックできます。
↓↓
『川辺町史 通史編 第二章 古代・中世』
http://www.kawabe-gifu.jp/?page_id=12750

阿夫志奈神社の森蘭丸の棟札については134ページをご覧ください。


『川辺町史』(引用開始)
本能寺で信長とともに討死した森蘭丸は、永禄八年(一五六五)金山城内で生まれたといわれている。しかし、川辺町上川辺地区にある阿夫志奈神社の棟札には、次のような記述がある。(棟札画像)

維時永禄七年
奉寄進御幕壹張 大願主森蘭丸源長定
甲子二月吉日

これによると蘭丸出生のさい、幕一張を阿夫志奈神社に寄進したとあり、生年は永禄七年(一五六四)で、一年早く出生したことになる。生年の記載誤りとすれば、十干十二支の甲子との関係が説明できない。七年と十干十二支は合致しているからである。当時の文献的な生年の記録は、必ずしも正確なものとはいえず、少なくとも出生のさいの神社への寄進は、神仏崇拝の観念から、正しいものといわざるをえないのである。今後の研究に待ちたい。

(引用終了)


この棟札を根拠に、「森蘭丸 永禄七年出生説~本当は19歳で討死したのかも~」もあるようです。

しかし、この棟札に書かれた文字のどの部分に「蘭丸出生のさいのもの」と解釈できるものがあるのか(私には)わかりません。そこまでは書いて無いような気がします。書いてないですよね?どなたか、書いてないよ、大丈夫だよってコメントしてください。

ちなみに、正式な文書として残る『阿夫志奈神社由緒記(明治12年)』には森蘭丸の棟札のことは登場しません。

棟札に書かれた文字を改めて確認してみます。

維時永禄七年
奉寄進御幕壹張 大願主森蘭丸源長定
甲子二月吉日


「維(これ)時 永禄七年
寄進(きしん)奉(たてまつ)る 御幕(まく)一張(ひとはり) 大願主 森蘭丸源長定
甲子二月吉日」

先入観を取り除いて解釈すると、この棟札は「大願主 森蘭丸源長定」とかなっているからには、ほかならぬ森蘭丸本人が願主となって永禄七年に幕を一張奉納しているという事なのではないのでしょうか。(定説に従えば、蘭丸当時マイナス1歳)
だったら「蘭丸もっともっと年輩説~私はおっさんだったのかも~」を出していいのでしょうか。
しかし、そもそも森蘭丸本人とその関係者が実際に名前に「蘭」という字を使っている形跡はないし(本人や信長の書状では「蘭」ではなく「乱」)、そして「長定」は恐らく本人は使ったことがない諱なので、ここに書かれた「森蘭丸源長定」はいったいどういうことなのでしょうか。
そして、奉納されたはずの幕はいったいどこへ?!
現存すれば、その幕でぐるぐる巻かれたいファン続出でしょうが(←幕の本来の用途とは違います)、残念なことに幕は現存しません。

見せていただいた宝物の「森蘭丸の棟札」はもう墨の色が失われていて、読みづらくなっていましたが、木の表面の墨書きの跡が凹凸に浮きあがっていてそれで何が書いてあったか奇跡的にわかるような感じでした。
裏面を確認してみましたが、やはり何も書いてなかったです。
『戦国ピーマンを食べれるようになりますように』とか、『戦場かけっこで優勝できますよう、その祈願ために幕を奉納』などの願主の具体的な願い事が書かれていてもよいと思うのですが、書かれていませんでした。

ここで更に私の仮説に基づいてこの棟札について色々検証してみたいと思っていたものの、我には知識がないのでそれは無理であり、それよりも社務所の壁にさりげなく貼ってあった報告書にクリビツいたしました。

日本原子力研究開発機構東濃地科学センターさんが「蘭丸の棟札」の木材に含まれる炭素を加速器質量分析装置で測定して(放射性炭素年代法)、作成年代を予想していたのでありました。

放射性炭素年代法とは、”宇宙放射線による核反応でつくられた放射性炭素(14C)を用いて年代を測定する方法”だそうです。森蘭丸の棟札の木材に含まれる放射性炭素の濃度を測定して作成年代が割り出されました。

宇宙放射線のおかげで森蘭丸の棟札の作成年代がわかったということです、奥様。
なんて壮大な展開!!!!
なんてすごいオチ!!!
Σ(゜□゜;

その内容がこちら。


(阿夫志奈神社 社務所に貼られていた 日本原子力研究開発機構 東濃地科学センターポスターより引用)

阿夫志奈神社には、この地域にゆかりの深い森蘭丸に関係する寄付名板が納められていました。
森蘭丸が誕生した時に寄進した御幕壹張の寄付名板で、永禄7年(1564年)2月に寄進されたと書かれています。この名板が森蘭丸誕生当時のものであれば、非常に価値の高いものとなります。そこで、この名板の年代を推定することとなりました。

【測定結果】
木材の年代 1673~1697年
年輪を考慮して板両角を測定した結果、名板は、17世紀後半の木で作られたと考えられます。名板に記載されている幕の奉納時期は1564年ですので、残念ながら名板は奉納時期のものではなく、江戸時代以降に作り直されたものと思われます。

(引用終了)


日本原子力研究開発機構 東濃地科学センター
https://www.jaea.go.jp/04/tono/
地層研ニュース「阿夫志奈神社の奉納物や本殿の年代測定を行いました」
https://www.jaea.go.jp/04/tono/miu_news/tisouken_news2307.pdf





日本原子力研究開発機構 東濃地科学センターさんは「棟札」という言い方はせずに、「寄付名板」として紹介してあります。
そして、『江戸時代以降に作り直されたものと思われます。』という調査結果に納得。
とりあえず、現存の棟札(寄付名板)そのものは森蘭丸が書いた(書かせた)可能性はなくなりました。
後世の神社関係者が『永禄七年に森蘭丸から幕を一張(はり)寄進を受けた』宝物の証が失われないように、棟札(寄付名板)を新調したか、改めて作り直したか、ということでしょうか。その時に、「森蘭丸源長定」という名前が彼の正式名として関係者によって選択されたのかもしれません。そしてもしかすると、もともとのオリジナル棟札(寄付名板)には、裏面に願主の祈願したことなどの詳細も書いてあったりしたのかもしれません。

06/25|森家コメント(0)TOP↑
国立国会図書館のデジタルコレクションで 『本朝鍛冶考』を閲覧することができます。
この中には森長可の愛鑓 『人間無骨』、および森蘭丸が織田信長公より拝領の刀剣『貞宗作の刀』のことも書いてあります。

書名:『本朝鍛冶考 』(ホンチョウ カジコウ) 鎌田魚妙 撰.
出版:近江屋平助 ; 河内屋徳兵衛, 嘉永4 [1851]
形態/付属資料 12冊 ; 25cm. 和装.


なお、このページでご紹介する画像はすべて国立国会図書館ウェブサイトから転載したものです。



森長可の愛鑓『人間無骨』

まずは、
「ぼくも、わたしも、みんな、あなたに切られたかった(or 刺されたかった)_______。」
で、おなじみの森長可公の愛鑓『人間無骨』です。
サイズや穂先の詳細が書かれています。図は表面で「人間」と彫られていて、裏面には同じ箇所に「無骨」と彫られているとのこと。

以前、私が北九州市立図書館でコピーしてきたこの図を某資料館の館長さんにお見せしたところ、この図を参考に発砲スチロールでまったく同サイズの穂先を作成なさいました。そしてそのしあげとして発泡スチロール人間無骨にシルバーのカラースプレーをかけたところ、「溶けた。」とのことでした。
さすが人間無骨!なんと、まぁ恐ろしきことよ!はっはっはっ!
(あ、その後また新たに作り直しされたそうです。)
20170507a.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』人間無骨 画像引用元URL(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/29




森蘭丸が織田信長より拝領の相州貞宗作の刀
 お次は貞宗作の刀です。
『本朝鍛冶考』には刀剣の図と解説とが2ページにわたって掲載されています。
1ページめ
↓貞宗作の刀とは、2番目と3番目のイラストの『相州貞宗作 長如図』)のことです。
刀が上下半分に分かれて表示されているので脳内で
『シャキーン!カシーン!合体!』
と結合させてご鑑賞ください。
ところで『相州貞宗作 長如図』の「長如」って何なのでしょうか?刀の銘でしょうか?これまで誰もここに触れてくれてないのでわかりません。
20170507b.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/35

なお、1番右のイラストの刀は”志津三郎兼氏”作の刀で、解説によればこの刀も森家に伝わる重器で、しかも蘭丸の貞宗作の刀とは対になる存在だそうです。また、貞宗の刀の制作の模範となった刀でもあるそうです。
…と、解釈したのですが、合っているでしょうか。(私の解釈ミスで嘘ついているかもしれません。)


2ページめ
このページの始まりの最初の2行がさきほどの『相州貞宗作 長如図』に対する解説で、それ以降の図や文章はまったく別の刀剣について書かれています。
20170507c.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/36

さきほど、志津三郎兼氏の刀についても生意気に解説してしまったついでにこの最初の2行の内容をわかりやすく書きなおしますと
『この貞宗は永禄頃、平(織田)信長公森蘭丸へたまふ所にてその後代々かの家(森家)に伝えられ、右の志津刀に対せり、実(は)この作の模範なり。』
とのことです。

05/06|森家コメント(1)TOP↑
この記事は「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」の続きです。

「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」を読む。


>『妙見宮由緒書』(密蔵院蔵)
一部抜粋。なお、環境依存文字は管理人の判断で常用漢字に変換しています。

一、中古兵乱打続、神社等一統衰廃之時節ニ及ひ、濃州土岐郡妻木之城主伝入、幷、同国可児郡兼山之城主森右近、右両人天正年中放火いたし、当社寺院とも焼失仕、其後太閤秀吉公朝鮮御征伐二付、諸国ヨリ兵船之材木出候所、当山妙見宮ハ七曜破軍星之上首、殊ニ稲種命者、東夷征伐武勇之神ニ候得ハ、旁之故を以、当社神木之内ニテ、帆柱杉木七本御伐取有之、右ニ付、本社等再建可致旨ニテ、料物被下置候、右金子を以、其砌本社等再建仕、則只今之社ニ御座候、右由緒を以、秀吉公御再建之社と只今も申伝候事ニ御座候

一、前顕之通、天正三年妻木之城主幷兼山之城主申合、放火いたし、当社不残焼失仕候、然処、右両人神罰を受ケ、種々之禁御座候付、両人とも前非を悔ひ、御詫を祈候処、妻木之城主ハ当社内ニ鐘楼を建、幷妻木村之内ニ妙見宮を勧請仕、日拝崇敬いたし、其後神罰を遁レ、子孫只今妻木村之城主ニテ、御旗本ニ御座候、右建立之鐘楼ハ、只今社内之鐘楼ニテ、棟札ニ慶長十八年願主妻木雅楽助源家頼建立等之旨、相認御座候、尤先年ハ右家ヨリ仰渡御座候事之由申伝候





ここでも妻木伝入(貞徳)と森右近(忠政)が寺社に放火したと明記しています。
しかも、「妻木伝入と森忠政が『申し合わせて』放火した」と書いており、そちも悪よのぅ感が増しております。
前半にご紹介した『妻木戦記』との大きな違いは、『妻木戦記』では放火事件が長久手の合戦の折の天正12(1584)年だったのに対し、『由緒書』では天正3(1575)年となっております。

天正3年といえば、
森忠政は数え年6歳
ついでに妻木伝入(貞徳)は、40歳であります。
しかも、金山城主は森長可ですし、森蘭丸・坊丸・力丸兄ちゃんらもまだピンピンしていた時節であります。

「妻木伝入(40)と森忠政(6)が申し合わせて放火した」

それってありなの?いいの?
そういう場合、忠政(6)が「燃やそうぜ!」と言おうが何を言おうが、大人の伝入(40)さんが
「本当に火をつけてもいいかどうか、おうちの人を呼んで確認しようね。」
と言うべきでしょう。
それを言うならまだ『妻木戦記』の「あれは長久手の合戦の折の放火でした」設定のほうがあり得る訳で…。
でも、長久手の合戦の時に森忠政が妻木軍と行動を共にしたとはとても考えられず…。
『由緒書』のいう「申し合わせ」という表現に従うなら仮に忠政が現場にいなくても、妻木氏と連絡を取り合って指示をくだせるかも知れないとは思いましたが、森家の当主の森長可が戦死したなう。という最中に、まだ当主でもない森忠政と妻木氏とがそんなやり取りしてるのもおかしいですし。

結局、森忠政がなぜ『妻木戦記』や『妙見宮由緒書』に放火犯として妻木伝入と名前を連ねられているのか、謎が解けないままです。

なお、『由緒書』のほうの記述によれば森忠政も妻木伝入も神罰を受けて何らかの禁(神様に制限をかけられた?)があったので両人ともに反省し、お詫びを祈ったそうです。
「妻木城主は当社内に鐘楼を建て、妻木村にも妙見宮を勧請して日拝崇敬したから神罰を逃れて子孫は今、妻木村の城主で旗本でございますよ。」
と書いてありますが、一方、妙見宮へのお詫びに何もしていない(由緒書きに何も書かれていない)森忠政はといえば、のちに美作国主になったのでありました。

結局、状況的に内々神社(妙見宮)に放火するのに無理があるはずの森右近忠政の名がどうして出てきているのかわからないまま、事件は迷宮入りです。
なんかスッキリできるいい史料が他にありませんかね。

Σ(゜□゜;
はっ!まさか!これは!
妻木伝入:「放火してよろしいものか。」
妻木伝入:(その場にいない忠政のクチマネで)「いいよー。」
妻木伝入:「森家と申し合わせ終了。森家と一緒に放火。」
いや、まさかそんな…。

コナン君でもいいです(各務兵庫に麻酔針プスッ!)、どなたか、この謎を解いてください。


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11/20|森家コメント(0)TOP↑
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うきき

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戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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