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国立国会図書館のデジタルコレクションで 『本朝鍛冶考』を閲覧することができます。
この中には森長可の愛鑓 『人間無骨』、および森蘭丸が織田信長公より拝領の刀剣『貞宗作の刀』のことも書いてあります。

書名:『本朝鍛冶考 』(ホンチョウ カジコウ) 鎌田魚妙 撰.
出版:近江屋平助 ; 河内屋徳兵衛, 嘉永4 [1851]
形態/付属資料 12冊 ; 25cm. 和装.


なお、このページでご紹介する画像はすべて国立国会図書館ウェブサイトから転載したものです。



森長可の愛鑓『人間無骨』

まずは、
「ぼくも、わたしも、みんな、あなたに切られたかった(or 刺されたかった)_______。」
で、おなじみの森長可公の愛鑓『人間無骨』です。
サイズや穂先の詳細が書かれています。図は表面で「人間」と彫られていて、裏面には同じ箇所に「無骨」と彫られているとのこと。

以前、私が北九州市立図書館でコピーしてきたこの図を某資料館の館長さんにお見せしたところ、この図を参考に発砲スチロールでまったく同サイズの穂先を作成なさいました。そしてそのしあげとして発泡スチロール人間無骨にシルバーのカラースプレーをかけたところ、「溶けた。」とのことでした。
さすが人間無骨!なんと、まぁ恐ろしきことよ!はっはっはっ!
(あ、その後また新たに作り直しされたそうです。)
20170507a.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』人間無骨 画像引用元URL(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/29




森蘭丸が織田信長より拝領の相州貞宗作の刀
 お次は貞宗作の刀です。
『本朝鍛冶考』には刀剣の図と解説とが2ページにわたって掲載されています。
1ページめ
↓貞宗作の刀とは、2番目と3番目のイラストの『相州貞宗作 長如図』)のことです。
刀が上下半分に分かれて表示されているので脳内で
『シャキーン!カシーン!合体!』
と結合させてご鑑賞ください。
ところで『相州貞宗作 長如図』の「長如」って何なのでしょうか?刀の銘でしょうか?これまで誰もここに触れてくれてないのでわかりません。
20170507b.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/35

なお、1番右のイラストの刀は”志津三郎兼氏”作の刀で、解説によればこの刀も森家に伝わる重器で、しかも蘭丸の貞宗作の刀とは対になる存在だそうです。また、貞宗の刀の制作の模範となった刀でもあるそうです。
…と、解釈したのですが、合っているでしょうか。(私の解釈ミスで嘘ついているかもしれません。)


2ページめ
このページの始まりの最初の2行がさきほどの『相州貞宗作 長如図』に対する解説で、それ以降の図や文章はまったく別の刀剣について書かれています。
20170507c.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/36

さきほど、志津三郎兼氏の刀についても生意気に解説してしまったついでにこの最初の2行の内容をわかりやすく書きなおしますと
『この貞宗は永禄頃、平(織田)信長公森蘭丸へたまふ所にてその後代々かの家(森家)に伝えられ、右の志津刀に対せり、実(は)この作の模範なり。』
とのことです。

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05/06|森家コメント(1)TOP↑
この記事は「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」の続きです。

「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」を読む。


>『妙見宮由緒書』(密蔵院蔵)
一部抜粋。なお、環境依存文字は管理人の判断で常用漢字に変換しています。

一、中古兵乱打続、神社等一統衰廃之時節ニ及ひ、濃州土岐郡妻木之城主伝入、幷、同国可児郡兼山之城主森右近、右両人天正年中放火いたし、当社寺院とも焼失仕、其後太閤秀吉公朝鮮御征伐二付、諸国ヨリ兵船之材木出候所、当山妙見宮ハ七曜破軍星之上首、殊ニ稲種命者、東夷征伐武勇之神ニ候得ハ、旁之故を以、当社神木之内ニテ、帆柱杉木七本御伐取有之、右ニ付、本社等再建可致旨ニテ、料物被下置候、右金子を以、其砌本社等再建仕、則只今之社ニ御座候、右由緒を以、秀吉公御再建之社と只今も申伝候事ニ御座候

一、前顕之通、天正三年妻木之城主幷兼山之城主申合、放火いたし、当社不残焼失仕候、然処、右両人神罰を受ケ、種々之禁御座候付、両人とも前非を悔ひ、御詫を祈候処、妻木之城主ハ当社内ニ鐘楼を建、幷妻木村之内ニ妙見宮を勧請仕、日拝崇敬いたし、其後神罰を遁レ、子孫只今妻木村之城主ニテ、御旗本ニ御座候、右建立之鐘楼ハ、只今社内之鐘楼ニテ、棟札ニ慶長十八年願主妻木雅楽助源家頼建立等之旨、相認御座候、尤先年ハ右家ヨリ仰渡御座候事之由申伝候





ここでも妻木伝入(貞徳)と森右近(忠政)が寺社に放火したと明記しています。
しかも、「妻木伝入と森忠政が『申し合わせて』放火した」と書いており、そちも悪よのぅ感が増しております。
前半にご紹介した『妻木戦記』との大きな違いは、『妻木戦記』では放火事件が長久手の合戦の折の天正12(1584)年だったのに対し、『由緒書』では天正3(1575)年となっております。

天正3年といえば、
森忠政は数え年6歳
ついでに妻木伝入(貞徳)は、40歳であります。
しかも、金山城主は森長可ですし、森蘭丸・坊丸・力丸兄ちゃんらもまだピンピンしていた時節であります。

「妻木伝入(40)と森忠政(6)が申し合わせて放火した」

それってありなの?いいの?
そういう場合、忠政(6)が「燃やそうぜ!」と言おうが何を言おうが、大人の伝入(40)さんが
「本当に火をつけてもいいかどうか、おうちの人を呼んで確認しようね。」
と言うべきでしょう。
それを言うならまだ『妻木戦記』の「あれは長久手の合戦の折の放火でした」設定のほうがあり得る訳で…。
でも、長久手の合戦の時に森忠政が妻木軍と行動を共にしたとはとても考えられず…。
『由緒書』のいう「申し合わせ」という表現に従うなら仮に忠政が現場にいなくても、妻木氏と連絡を取り合って指示をくだせるかも知れないとは思いましたが、森家の当主の森長可が戦死したなう。という最中に、まだ当主でもない森忠政と妻木氏とがそんなやり取りしてるのもおかしいですし。

結局、森忠政がなぜ『妻木戦記』や『妙見宮由緒書』に放火犯として妻木伝入と名前を連ねられているのか、謎が解けないままです。

なお、『由緒書』のほうの記述によれば森忠政も妻木伝入も神罰を受けて何らかの禁(神様に制限をかけられた?)があったので両人ともに反省し、お詫びを祈ったそうです。
「妻木城主は当社内に鐘楼を建て、妻木村にも妙見宮を勧請して日拝崇敬したから神罰を逃れて子孫は今、妻木村の城主で旗本でございますよ。」
と書いてありますが、一方、妙見宮へのお詫びに何もしていない(由緒書きに何も書かれていない)森忠政はといえば、のちに美作国主になったのでありました。

結局、状況的に内々神社(妙見宮)に放火するのに無理があるはずの森右近忠政の名がどうして出てきているのかわからないまま、事件は迷宮入りです。
なんかスッキリできるいい史料が他にありませんかね。

Σ(゜□゜;
はっ!まさか!これは!
妻木伝入:「放火してよろしいものか。」
妻木伝入:(その場にいない忠政のクチマネで)「いいよー。」
妻木伝入:「森家と申し合わせ終了。森家と一緒に放火。」
いや、まさかそんな…。

コナン君でもいいです(各務兵庫に麻酔針プスッ!)、どなたか、この謎を解いてください。


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11/20|森家コメント(0)TOP↑
妻木氏について詳しくないのでにわか知識で書いております。
何かお気づきの点があればご教示ください。


妻木城主だった妻木氏の事を記録する『妻木戦記』を国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることができます。

『妻木戦記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918604

『妻木戦記』には、かっこよくかつ理不尽に妻木氏を追い詰める森長可の情報も満載なので森家好きにも満足な一冊なのですが、その中にこういうものがございました。


尾州東春日井郡内々津山妙見寺由来書
天正年中兵乱の節濃州土岐郡之城主伝入並(金)山の城主森右近右両人当山に放火し
社寺以下諸証文等炎焼致候、其後太閤秀吉公朝鮮に御出陣之節、妙見菩薩は北辰にて七曜破軍星之上首取七曜を形取り御用之帆柱杉木七本御伐採被為成右の榊木料物金二百両御奉納有と当時の別当右金子を以て只今の本社拝殿等再建仕り由、当寺中之書付に相見申候
右妻木城主妻木伝兵衛子息妻木雅楽助当寺鐘楼堂建立にて棟札左の通り
干時慶長十八年癸丑別当蓮華院慧秀奉新造立鐘楼願主妻木雅楽助源家頼書判
                    藤原朝臣  大工八兵衛


『妻木戦記』より引用



上の内容を短く表現すると
「天正年中の戦乱の時に妻木城主の妻木伝入(貞徳)と金山城主の森右近(忠政)の二人が神社に放火して全焼
その後、朝鮮出兵で豊臣秀吉が軍船の帆柱用に神社の大木を伐採して二百両くれたので、そのお金で本社と拝殿を再建した。
さらに後に妻木伝入の子息の雅楽助が鐘楼堂を建てた。」

ここに出てくる『尾州東春日井郡 内々津山妙見寺』とは、現住所にして春日井市内津町にある内々神社のことで『妙見寺』とは当時、内津神社の境内にあったお寺です(現在は隣接)。
以下、記事中に「内々」「内々津」「内津」という地名が出てきますがすべて「うつつ」という読みで同じ場所のことです。

内々(うつつ)神社 (春日井市サイト)
http://www.city.kasugai.lg.jp/22498/kanko/464/utsutsuj.html



さらに知人が内々神社に参拝して写真を撮ってきてくれました。

ututu1.jpg

ututu2.jpg

ututu3.jpg

内々神社に隣接する「内津妙見」です。もとは内々神社の境内にありました。
ututu4.jpg

ututu5.jpg


本能寺の変の後、妻木城主の妻木頼忠(伝入の嫡男、=雅楽助、家頼)は森長可に反旗を翻したものの、力及ばず森長可の傘下に入り、身内は森家の居城である金山城の城下に住まわせられました。

天正12(1584)年の小牧長久手の合戦において妻木氏は(イヤイヤ)森長可に従って内津峠(愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ峠)に布陣していたそうです。この合戦において森長可は、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉ですが)方であり、徳川家康とは敵になっております。

で、『妻木戦記』を読むと、内々津に陣を置く妻木軍(妻木頼忠軍)は森長可の戦死を知るや否や徳川家康に応じ、逃げ来る豊臣方の敗走兵を迎え撃っているようなのです…そしてその時に内々津の陣に向かってきた兵と妻木軍が乱闘になり、妻木氏は町家に火をかけて敵を討っているように思えるのですが…(私の解読ミスでしょうか?)
ともかくも、そんな状況になーんで森忠政が登場できるのでしょうか?
森忠政は当時、恐らくは秀吉の側に仕えていたのではないかと思います。人質的な意味でも。
この合戦中に妻木氏と行動を共にしていたなんてありえないと思うのですが。

そもそも、この『妻木戦記』では長久手の合戦で生き延びたはずの三好秀次(「三好源七郎」と書いてあるのはたぶん三好孫七郎秀次のこと)と堀久太郎(堀Q)も討死したことになっているのであります。
内々神社を妻木氏が焼いちゃったあたりはわざわざ嘘を書くとも思えないけども、その内容のどこまでを信じていいのか。

引き続き『妻木戦記』を読むと、妻木伝入(放火した人)は先に妙見宮に祈って
『勝たせてくれたら自分の領地に大社を建ててお祀りします』
との旨を祈祷しています。
でも、結局はその妙見宮をも燃やしちゃったのね…合戦って難しいね。
なお、この約束により、天正17(1589)年に伝入の子の頼忠(家頼)が妻木の地に妙見宮を勧進して分社を祀り、内々津の地から杉を一本移して手植えにしたそうです。

これが妻木妙見宮の所以なり。(キリッ!)』(『妻木戦記』)

だ、そうですが、森忠政がなぜ長久手の合戦の時になんで妻木氏と一緒になって寺社を焼いちゃってんだ、というミステリーはおいてけぼりです。

なお、妻木妙見宮(現・春日神社)については、土岐市サイト内にあった記事が詳しくて理解しやすかったのでURLを貼らせていただきます。
『しろやま公民館だより』 郷土資料室のページ 80上郷の春日神社 その1
http://www.city.toki.lg.jp/fs/14262/h24-10-15-pdf.pdf


そして、この記事はなぜか後半に続く(いや、単に長くなっちゃったので分割します)。

なぜか忠政が放火犯になってる件 2

別の資料はないものかと春日井市に相談してみたところ、
『妙見宮由緒書(密蔵院蔵)』
という文献をご教示くださいました!
そこにはなんと、やっぱり放火魔として森忠政の名が!
後半はそのお話です。





10/18|森家コメント(0)TOP↑
江戸時代後期の絵師・酒井抱一(1761-1829)の描いた『集外三十六歌仙』(姫路市立美術館蔵)の中に「木下長嘯子」が登場します。
木下長嘯子(ちょうしょうし)は北政所の甥にして若桜小浜城主であった木下 勝俊のことで、森蘭丸の姉・うめ(宝泉院)の元夫でもあります。
『集外三十六歌仙』は江戸時代後期の作品なので酒井抱一の想像による絵姿と思われます。
姫路市立美術館サイト内の画像は貼ってはいけないようなのでリンク先だけご紹介します。

姫路市立美術館
http://www.city.himeji.lg.jp/art/index.html

集外三十六歌仙  
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/kyodo/yukari/hoitsu/shugai.html

集外三十六歌仙 木下長嘯子
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/kyodo/yukari/hoitsu/shugai/19.html


月思徃事  木下長嘯
「世々の人の月はながめしかたみぞと
おもへばおもへぬるゝ袖かな」


ちなみにこの歌は『森家先代実録 巻第三』でも紹介されています。




京都・圓徳院には木下長嘯子のお墓と木像(木像についての詳細は存じません)があります。
圓徳院さまのサイト内に木下長嘯子像の画像があったのでこちらもリンクを貼っておきますね。

圓徳院サイト
http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml

木下長嘯子とその世界
http://www.kodaiji.com/entoku-in/chosyoshi/#1




07/18|森家コメント(0)TOP↑
『太閤記銘々伝』という1878(明治11)年の書物にちょっといい感じの画風で森家の方々が登場していたのでお話のネタにご紹介します。この挿絵は浮世絵師の歌川芳春によって描かれました。


書籍データ
タイトル:『太閤記銘々伝』
著者:綱島亀吉
イラスト:朝香楼(歌川)芳春
出版年 1878(明治11)年



まずは、森可成父さん。安定感ハンパないです。
20160710-1.jpg


次は森長可アニキ。モテ男の必須アイテム「敵首」持参中。
20160710-2.jpg


森蘭丸2点セット。
光秀のもとどりをムンずとつかみ、鉄線で顔面を打ちすえ中。
20160710-4.jpg
目つきがちょっと怖いけど、お取り込み中(本能寺の変)だから仕方ないよね。
20160710-6.jpg


そして森坊丸(仿丸になってるけど)。気になる髪型。そしてこれは怒っている人の目だ。
20160710-5.jpg



番外編で坂井久蔵。蘭丸の姉・鴻野さまの元フィアンセ。これは敵の頭に刀をぶっ刺してそのまま首を「ブチッ」と引きちぎっているのでしょうか?
20160710-3.jpg

07/10|森家コメント(0)TOP↑
プロフィール

うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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