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第80回(再興して4回目)の『美作国万灯会』のお知らせです。

『第八十回 美作国万灯会』
◆日時: 2019年6月29日 18:00~20:30
◆場所: 本源寺(岡山県津山市小田中1373)
◆拝観料・演奏料: 無料
◆献灯料: 500円(※希望者のみ)
◆出店: 軽食・喫茶・かき氷ほか

チラシ表
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津山藩 森家菩提寺
東海山本源寺 特別拝観


■特別拝観
◆日時:2019年7月1日(日)-7月7日(日) 10:00-16:00(7日は午後のみ)
期間中は、お抹茶とお菓子をご用意しております。

■初代津山藩主 森忠政公 毎歳忌法要
◆日時: 2019年7月7日(日) 10:00- 
◆場所:本源寺本堂にて
法要後、特別講演を開催いたします
◆特別講演
講師/津山郷土博物館長 小島徹さん
~津山藩森家時代の話~(無料)

どなたでもお参りできます
森忠政公の守り本尊、千手観音菩薩像(高さ五寸五分)を、特別に御開帳いたします。


チラシ裏
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06/08|イベントコメント(0)TOP↑
津山市本源寺さま(岡山県津山市小田中1373)でのイベントを紹介いたします。
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津山藩初代藩主・森忠政公の奥方・お岩の初盆に万灯をともしたのは慶長十二年(一六〇七)のこと。
それから忠政公五十回忌までの七十六年間、庶民らの手によって万灯会は続けられました。
昨年、奇しくも三百三十三年ぶりに美作国万灯会は見事に復活を遂げました。
そして今年もまた、七十八回目の万灯がともされます。


第七十八回 美作国万灯会
・日時:2017年7月1日(土)18:00-20:30 (※雨天順延)
・会場:本源寺
・拝観料:無料
・献灯料:500円(※中学生以上)
・無料演奏会、および出店あり

本源寺 特別拝観
・日時:2017年7月2日(日)-7日(金) 10:00-16:00
(最終日7日は午後のみ)
※期間中は、お抹茶とお菓子を用意しております

初代津山藩主 森忠政公 毎歳忌法要
・日時:2017年7月7日(金)10:00-
・会場:本源寺本堂
法要後、特別講演を開催いたします(無料)
・講師/津山郷土博物館 小島徹さん
・演題/『津山藩主 森家の終焉』
※どなたでもお参りできます。
森忠政公の守り本尊・千手観音像(高さ5寸5分)を特別に御開帳いたします



津山市サイト内にもこのイベント紹介がありますので、URLをはっておきます。
第78回 美作国万灯会(みまさかのくにまんとうえ)
http://www.tsuyamakan.jp/event/detail/?pk=111

また、同じ期間に鶴山公園(津山城跡)でも夜間特別イベントが開催されるそうです(2017年7月2日-7月7日)。
夢輝く津山城~イルミネーションで甦る津山城~
http://www.tsuyamakan.jp/event/detail/?pk=114
06/10|イベントコメント(0)TOP↑
自分用メモ。行かねば。入らねば。

湯原温泉(岡山県真庭市)


温泉寺文書
湯本にあった温泉寺(薬師堂が温泉街に残っている)文書の中に「慶長十七年に湯本村の美甘宗玄が森忠政の許しを得て温泉を開き、薬師堂を建立した。宗玄は久世町薬王寺の檀家なので、薬王寺の末寺として温泉寺と名付けた。棟札は慶長十七年、願主・宗玄」とある。また、「本尊は薬師如来であり、開祖は美甘惚兵衛、慶長十一年成就」(『湯原町史』から)とある。
江戸期から温泉の元締めをしていた湯本屋の美甘家に残る森忠政の温泉免許文書にも、「湯本請所(温泉のこと)について申し付ける。他国の者が出入りするので、諸事みだりなくするよう心得ること。当年中の請所の運上銀(税金)は、二百七十目。湯本村、惚兵衛、慶長十七年(一六一二)」と記され、温泉の起源について触れている。

(元禄の資料が示す伝承)
慶長年間になり、森忠政は(宇喜多秀家の造った)湯場を修復して訪れた。二代目藩主の長継も新たに修理した。また、その子忠継もたびたび湯治に訪れた。

『昭和40年にたどった大山道』小谷善守 津山朝日新聞社 より引用




露天風呂 砂湯(すなゆ)
砂湯はもともと平安中期の僧侶によって開かれ、初代津山藩主・森忠政が川底から湧き出る泉源を石で囲って湯船を造ったと伝えられています。

湯原温泉「菊の湯」サイト様より。
http://www.yubara-kikunoyu.com/sight/yubara_onsengai.html


11/22|メモコメント(0)TOP↑
関連記事:「美作国万灯会

2016年7月2日に森忠政公の菩提寺・本源寺さま(岡山県津山市)で開催された万灯会の画像をいただきましたので掲載いたします。
森忠政公ら森一族の墓前にも明かりが灯っていた様子がわかりますね。

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07/03|イベントコメント(0)TOP↑
ほとんど自分用の備忘録です。(^_^;)

現在、長野市立博物館で開催中の企画展『川中島を行きかった武将たち』(2016年4月23日(土)- 6月5日(日))にあわせて刊行された図録『海津城の主たち』を入手しました。
その中で私が気になったこと、参考にしようと思ったことをここにメモしておきます(ただし、イケメン森家の事柄に限る)。

鶴ちゃんの、あっちむいてホイ!!
図録は森家の鶴丸紋が逆向き表示(鶴ちゃんが右むいちゃってます)になっていたりします。
該当ページは今ならPDFで閲覧できます。長野市博物館さんサイト→『海津城の主たち』目次
ぐはっ!何かのミス?!見ていて何か落ち着かない!!!
同じページに描かれている上杉家や松平家や真田家の家紋は左右対称なので、間違って家紋が反転されていても森家にしか影響しないという…クッ!
森家の鶴丸紋は、2匹の鶴を向かい合わせた状態にして描かれることもあるため、『右向け右!』パターンも、あるといえばあるのですが、通常は左向きです。単体で登場した場合は鶴ちゃんは常に左向きです。昔は「左」を「右」よりも上位に置く認識だったから左向きがスタンダードなのかなーとか勝手に思ったりしてます(←私の思い込みであり、嘘かもしれません。)

森長可さんにも、あっちむいてホイ!!
また、『海津城の主たち』の中にある「海津城の城主ほか変遷」の欄の『森長可』は『本能寺の変で逃げ帰る』とかいう一言で終わってました。
もっと森家に愛を注いでください長野県民…。
森長可は誰にでも優しく(好きな相手限定、あとは死ね)立派な武将なんですよ…。

森忠政の待望の城
海津城は現在の「松代城」という城名になるまで色々とネーミングを替えられています。

海津城(武田信玄が命名。)

待城(森忠政が命名)

松城(松平忠輝が命名)

松代城


この件についても図録に触れてありましたので引用しておきます。


(以下、『海津城の主たち』より引用)
・永禄ノ初、新城ヲ築テ海津城ト名ク、慶長ノ初メ待城、又、松城ト改ム、正徳以降松代ノ字ヲ用ウト云 『松代地誌稿』

・武田信玄は城を造り、その名を海津城とした。その後、慶長の初めには城の名前を「待城」もしくは「松城」としたという。そして江戸時代の正徳年間には、「松代」と地名が変わり、城の名は「松代城」となったというのである。城の名である「待城」「松城」がどこに由来するのかは諸説ある。戦国時代に使われていた「海津」の地名が江戸時代になって城の名とともに「松代」にかわったということができる。

・森忠政は、兄の森長可が織田信長のもとで海津城に入ったが、夢を果たせずに退去したことに鑑みて、待ちに待った城という意味で、「待城」と名づけたとされる。

・松平忠輝は松平の城という意味で、「待城」を「松城」にしたという。

(以上、引用終了)



森忠政が海津城を「待城」と改めたというのは上記の説のほかに、
「領民は我(憎き森長可の弟)がくるのを待っていただろうから。」
とかいう意味合いだったという説もあります(中二病とか謂うなかれ)。

先日、津山の森家関係の方とお話していて、面白いお話を伺いました。
「『待城』の改名は、森忠政が徳川からの恩賞を『待ってる』っていう、徳川に向けたメッセージだったのではないのでしょうか。実際に森忠政は関ヶ原の合戦(慶長5年・1600年)が終わって美作国を拝領するまで(慶長8年・1603年)恩賞をもらえないまま川中島でそのままにされていたのですから…。」
そういえばそうだな、関ヶ原に行きたくて行きたくてたまらない森忠政を
「大丈夫だから」
「親父(家康)にもちゃんと言っておくから大丈夫だから」
と徳川秀忠に諭されて、そのまま真田の押さえとして信州に取り残されてましたっけ…。そしてさらにそのまま…放置プレイだったのか…。
このお話、なんだかすごく説得力があると思ってすごく心に残っております。
また、「待城」については「たいじょう」という「ふりがな」を振られることが多いので何度かこのことについで森家仲間の間でも話題になりましたが、森忠政の「待ってた」理論と、のちに松平がこの城を「松城」と漢字変換したことも考えれば素直に訓読みで「まつしろ」でよろしいのではないかと考えています。

国宝に森長可?!上杉景勝書状
『海津城の主たち』図録には
「29 上杉景勝書状 米沢市上杉博物館蔵 国宝」
の書状が掲載してあります。
図録をスキャンしてここに掲載すると犯罪者になってしまうので、所蔵先の米沢市上杉博物館サイトにあった書状のリンクを掲載しておきます。


[伝国の杜]米沢市上杉博物館(外部リンク)
【国宝】上条冝順宛 上杉景勝書状 上杉景勝 天正10年(1582)4月3日 (外部リンク)


この書状について図録『海津城の主たち』の解説には
『天正十(一五八二)年四月三日付の書状。上杉景勝が上条宜順に対して諮問したもの。内容は、天正十年に織田信長の軍として森長可が北信濃を占領したが、長沼城のことや越中の須田満親が撤退を余儀なくされた状況にあることをふまえ、その備えをどうするかを尋ねる。』
と、あったので、国宝の書状に森長可のことがっ???!!!
と一瞬は興奮しましたが、書状の中には「森長可」の名は直接には書いていないようですね。
書下し文は『信濃史料』にありました。
『信濃史料 巻十五』上杉景勝書状 長沼城ノ武主ヲ諮ル

あ、図録『海津城の主たち』は郵送してもらうことも可能です。

長野市立博物館(外部リンク)
長野市立博物館企画展『川中島を行き交わった武将たち』(外部リンク)


それにしても、やっぱり鶴丸紋が右向きなのが気になります…。
05/08|雑記コメント(0)TOP↑
プロフィール

うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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