『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』にある森家関係の項目の抜き書きです。

『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』とは、膳所(ぜぜ)藩士であった寒川辰清が藩主・本多康敏の命をうけて編纂した地誌で、享保19(1733)年に完成したものです。
以下、『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』より引用。

〔宇佐山城跡〕
宇佐山は錦織村の西にあり。宇佐八幡社あるを以て其號となす。此古城址二町四方許、山上に樓臺等の址顕然たり。土俗云ふ鈴木三左衛門居城の址なりと、臣按ずるに非也、元亀元庚午年五月九日信長暇を義昭に告げ京を出でゝ近江に到り、城を宇佐山に築き森三左衛門可成をして之を守らしむ。浅井長政、朝倉義景等之を攻む。同九月可成戦死の後、其臣武藤五郎右衛門及肥田玄蕃等暫く在城すと雖も戦死して遂に落城せり。 森三左衛門の事跡は坂本来迎寺の條下に記す。
〔森三左衛門墓〕
来迎寺境内にあり。森三左衛門尉源可成の墓なり。法名・心月浄翁居士といふ。嘗て可成、元亀元年九月二十日坂本合戦の時瀬戸在家の邊にて戦死す。来迎寺の住僧眞雄上人遺骸を此寺に瘞む。瀬戸は東南寺の邊をいふ。三左衛門可成は美濃蓮臺の郷士越後守重可が子也。されば朝倉の大勢宇佐山へ攻めかゝる堅田の城より織田九郎信治城主青地駿河守泰資、宇佐山の後詰せんと馳せ向ふ。三左衛門信治を打せてかなはじと打て出で朝倉勢と挑戦、朝倉孫三郎景健、山際より横鎗についてかゝる。浅井石見守・大野木土佐守長濱より渡海し是も横鎗に攻掛りければ、・織田・青地以下、前後の敵に包まる。森三左衛門今は是までと北庄土佐守景行が備へに駈入り、遂に石田十蔵が為に打たる。織田九郎にも大陽寺右馬介景春が陣に駈入り、五十嵐小太郎と指違へて死す。青地駿河守は浅井長政が備への前にて戦死せり。
〔安土古城址〕
安土山に在り。安土山高さ二町許、廻り一里半余、頂上に天守あり、今に其跡石垣等の跡顕然たり。本丸二ノ丸三ノ丸等間数高低詳に知れがたし。家康公及羽柴秀吉・武藤助左衛門・青木加賀右衛門・中條将監・武井肥後・織田信忠・長谷川竹・織田七衛・森蘭丸・福富平左衛門・市橋九郎左門・菅谷九右衛門・堀久太郎等が屋敷跡在り。安土山の内に薬師山・笛吹尾・源左衛門鼻・梅ケ谷・あみが鼻・われ尾・永尾等云ふ処あり。悉く書し難し。抑此城は織田信長下知して惟任五郎左衛門長秀奉行す。
〔桐原郷(きりはら)〕
安養寺村・東村・古川村・森尻村・中小森村・池田村・竹川村、以上七村をいふ。
〔薬師村〕
七里村の東にあり、小口村より六七町北也。昔は薬師寺とて大寺これあり、坊も六坊ありといふ。今僅かに一坊を存す。

以上、引用終了。

管理人の補足です。
〔宇佐山城跡〕宇佐山城は落城していないのに「落城せり。」と書いているし、武藤五郎右衛門や肥田玄蕃らも戦死していないのに「戦死して」しまったことになっているなど、文中には間違いもありますがそのまま書き出してみました。
〔森三左衛門墓〕森可成は比叡辻で戦死していたとされますが、ここでは「瀬戸在家の辺=東南寺あたりで死んでた」とピンポイントで書いていますね。いちおう、比叡辻の道筋にあたりますね。 瀬戸在家の辺り・・という情報は現地の人に伝承の聞き取り調査でもした結果でしょうか?何も書いていないので信憑性はわかりません。(^_^;)謎
〔桐原郷〕〔薬師村〕は森蘭丸の所領の一部です(残りの所領「西山上」と「須恵田」の記述は見つけきれず)ので、ついでに書き出してみました。





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