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本棚を整理していたら、大昔の新聞記事情報が出てきたので転記しておきます。
織田信長とその家臣たちの慰安旅行(目的地:推定 下呂温泉)のメンバーに森長可の名前があったので保存していた記事です。
この記事とは別に、後日、下呂温泉パンフで、この内容のPR『織田信長も…森長可も入った温泉』みたいなのをみかけたので、それもどこかに保存していたはずなので、また見つけたら載せてみようかと思います。
穴をガスガス掘ってできた穴ポコ温泉に森長可が入って日頃の疲れを癒しているのを想像するだけでも楽しいですね。



(以下、記事の引用)

信長が家臣とともに”慰安旅行”
『毎日新聞』記事(平成3年12月31日付)

 織田信長が天正六年(一五七八)春に木下藤吉郎や前田利家らの家臣とともに飛騨へ湯治に出かけたことを記録した古文書が関市内の旧家から見つかった。
 古文書は、同市内で書店を経営する羽渕友明さんが保存する「羽渕家家系図」で、鑑定によると江戸時代末期の文化年間に羽渕家当主が書いたもの。
 同家系図の「天正六戊寅春信長公岐阜ヨリ飛州御湯治之節」から始まる記述によると、信長は、岐阜から飛州(飛騨)へ湯治に行く途中で同家で休憩した。主人がお茶を出すと、信長は上機嫌になった。
 森長可、池田勝入、前田利家、木下藤吉郎といった同席家臣の名前も書かれており、その直後に「本能寺御大変残念不少事」と記されている。
 岐阜県歴史資料館の友田靖雄資料課長は「初めて聞く話だ。大変興味深い。このころ家臣を連れ、湯治旅行に行った可能性は十分にある」と話している。 
 湯治先について発見者で関市史編さん委員会の松原久男さんは「岐阜市から関市を通過しているため、下呂温泉」と推測している。温泉のある同県益田郡下呂町によると、同温泉は六世紀初頭に開湯。天正時代は、「湯島」「下留(げる、しものとまり)」と呼ばれ、美濃と飛騨をつなぐ街道沿いの湯治場として広く知られていた。当時は飛騨川の河原に穴を掘っただけの露天ぶろばかりだったという。
 この年、信長は四十五歳。本能寺の変であっけなく亡くなるのは四年後のこと。
 下呂町では「実証できれば、ブームにあやかって”信長の湯”とでも命名してPRしたいですね」と話している。



05/19|森家コメント(0)TOP↑
(森長可を指して):
『嗚呼、石身鉄腸の御運強き武将かな』




江戸時代の軍記物『金山軍記』にある一文です。
原文は『嗚呼石身鉄腸の御運の強き武将哉』です。
『石心鉄腸(せきしんてっちょう)』あるいは『鉄心石腸』という四文字熟語があるのですが、ここでは『石身鉄腸』となっています。でも、同じ意味で使っているのでしょう。

【鉄心石腸/てっしん-せきちょう】意味
意志が鉄や石のように堅くて、容易には動かせないこと。強く堅い精神や意志のたとえ。▽「心」「腸」は心臓や腸などの内臓で、心や意志のたとえ。
『goo辞書』より引用


森長可が小山観音(岐阜県美濃加茂市)に参拝しようとした時に川向こうから敵の矢が次々と飛んできたというのに、長可は少しも騒ぎ立てずに しずしずと登山して小山観音に参拝して帰って行ったというエピソードのくだりに『嗚呼石身鉄腸の御運の強き武将哉』が出てきます。
なお、『森家先代実録』には、この小山観音参拝のエピソードは登場しません。
『金山軍記』も歴史資料ではなく、物語として読むべきですが、この手の書物の文章は『『嗚呼石身鉄腸の御運の強き武将哉』』のようにかっこよい表現も多くて、読んでいてとても楽しいです。



小山観音(美浦加茂市観光協会サイト内)
http://minokamo-kanko.jp/html/koyama.html


10/19|もり語録コメント(0)TOP↑

『明智が者と見え申し候』 森乱



 太田牛一の『信長公記』にある『信長公本能寺にて御腹めされ候事』の場面に登場する森蘭丸のセリフです。
『信長公記』では森蘭丸のことは『森乱』と表記されています。

 本能寺を取り巻いて四方から乱れいる明智軍。
その騒がしさを当初は信長もお小姓衆も、下々の者がケンカでもおっぱじめたのかと思いきや、ついには鬨の声があがり、御殿に鉄砲が撃ち込まれます。

信長:『これは謀反か、いかなる者の企てぞ』
森乱:『明智が者と見え申し候』


そしてかの有名な織田信長のセリフ
信長:『是非に及ばず』
が発せられるのです。



是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
(※『改訂 信長公記』桑田忠親/新人物往来社を引用)
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時刻到来 『信長公記』より





『信長公記』から蘭丸の言葉を引用しようと思ったのですが、先に『時刻到来』という単語を思いついてしまいました。これは、森一族の誰かのセリフによる「もり語録」ではありませんが、個人的興味で追加させてください。

太田牛一の記した『信長公記』は、織田信長のことを知る格好の史料ですが、その文章の中には牛一の抱く仏教思想も漂い、人が死ぬ場面になると「時刻到来」という記述が出てきます。

いかに栄華を誇った英雄でも天の定めた「時刻が到来」すれば死ななきゃならないようです。

織田信長もその例外ではありません。
光秀軍の本能寺襲来に対しては、信長公自らも弓を携えて戦っていたけれども、『時刻到来候て』___。
この世から離れなくてはならない合図であるかのように、信長が手にしていた弓の弦がブツリと切れてしまったのです。


『信長、初めには御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ、と仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候、御姿を御見せあるまじきとおぼしめされ候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ
『改訂 信長公記』桑田忠親/新人物往来社を引用)

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『予(よ)が骨肉に お千をすてて外(ほか)になし』
森長可




『森家先代実録』にある一文です。
私の判断で読みやすいように原文に送り仮名や読み仮名を施しています。

 本能寺の変で主君・織田信長、信忠父子と三人の兄弟と信濃四郡の領土を失った森長可ですが、その後は本領の美濃金山に戻り、引き続き織田家に忠誠を誓うということで、末弟の千丸を岐阜城へ人質に出していました。

 しかし、天下の趨勢(すうせい)に伴い織田信雄と羽柴(豊臣)秀吉のどちらに味方するかの選択肢に迫られるようになります。

 森家が羽柴秀吉に味方しようとした時に、では、岐阜城に人質に出した千丸はどうするのだということになりました。家老の居並ぶ評議の場で、義理の兄弟でもある長田又左衛門が
「お千殿をば捨て給え。」
と、千丸を見殺しにするように進言したことに対して、長可の放ったのが上の言葉です。

『可成君御討死、引き続きお蘭とお坊、お力、三人まで討死して日々母公の御目乾くことなし。其上(そのうえ)予が骨肉にお千をすてて他になし。秀吉公に一味して、縦(たとえ)何程(なにほど)立身するとも、一人の弟を捨て殺さん事、母公への不孝といひ、更に心得がたし』

 絶対に承服しない森長可。
結果として、長可にとっては叔父である林為忠が一計を案じて岐阜城へ行き、岐阜城の櫓から千丸を下の布団にダイブさせて奪取して金山に連れて戻ってきます。
 長可は大喜びで千丸の手を取って母に「お千を進ずる」と引き渡しました。
そして、秀吉に味方することを決定しました。
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Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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