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民俗学者である柳田国男の著作「風呂の起原」(『定本柳田國男集 14』)に森家のことが出てきたので関係部分を引用しておきます。
なるべく書籍にあったままの旧字体を使用していますが、パソコンで出てこない文字や機種依存文字は現代漢字に改めています。




温浴をフロと云ふこと、誠に其來を知るに苦しむ。是は我邦の入浴法が如何なる沿革を經たかを詳かにした上で無ければ、到底決する能はざる問題である。言海に依れば、風呂は茶の湯などに用ゐる風爐から轉じた語とある。今日迄の通説は先づ此であらうが、以前の浴槽が果して現在の如く其底又は側に竈を取附けたものであつたか否かゞ疑はしいから、未だ信用することは出來ぬ。古く寺院に於て用ゐられた石風呂などは、正しく熱湯を他より汲み來つて此に湛へたので、風爐の語を擬せらるべき事由が無いかと思ふ。そこで試に自分の臆断を述べるならば、中國其他に於て森をフロと稱することは、或は此問題を解決する一つの手掛りではあるまいか。近刊の東作誌を見るに、森をフロと謂ふのは美作の方言である。繁樹風を遮つて暖かなるが故に風呂と云ふとも、又領主の名字たる森の字を諱(い)んで斯く謂ふとの説もあるさうだ。第二の説は蓑をケラと謂ふ場合も同様で(郷土研究三卷二〇頁)、フロの語が何故に用ゐられたかの説明とはならぬのみならず、是は決して森家舊領にのみ限られた例では無い。雲陽志に依れば、世俗森をフロと云ふ云々とあつて、例へば出雲仁多郡石原村の御崎森の如き、里人之をミサキブロと謂ふ由を記して居る。
ミサキは往々森の中に祀らるゝ一種の荒神である。之と似た例は、
  石見邑智郡澤谷村大字九日市字花谷小字御先風呂
  備中川上郡平川村学後北小字疫神風呂(やくじんぶろ)
  同 同  湯野村大字西山字二五砂大字風神(かざかみ)風呂

などがある。山奥の地名に風呂谷又は何風呂と云ふのが多いことは、諸國共通の現象であるが、此が命名の由來を温泉又は寺院の浴室の址に歸することは甚だ困難である。丹波氷上郡小川村大字奥村の風呂權現社は、先祖の佛日に風呂を立てゝ近所の民人を浴さする故に斯く云ふと丹波志にある。又前揭東作誌にも、勝田郡吉野村大字美野の古城の下に風呂屋と云ふ谷のあるを、古(いにしへ)浴室ありし所と云ふとあるが、何れも地名から推測した說らしい。同書勝田郡廣戸大吉村の草屋分の條に日く、氏神八幡の末社に風ノ宮あり、神體は鏡、祭日は二百十日の前後。此風呂の中に入れば大風發するとて、作物ある季節には晝夜とも番人を置く云々。舊年迅風大いに害を爲せしより森侯此神を敬服し祭祀を行ひ祀料を下したまふ。國除の後祀料絶えたれども祭神怠らずと。即ち何等浴湯とは關係無く、前の備中の風神風呂の類である。殊に注意すべきは此村に一の風穴があることである。犯せば風害があると云ふ神は元或は此穴の神であつたのかも知れぬ。又同郡高取村大字池ヶ原には堂風呂と云ふ地がある。阿彌陀堂の址と稱して古い松があり、森侯曾て之を移さんとして亦崇があつた。其松寛政六年に倒れ枯れたが、舊株永く朽ちずして堅きこと金石の如く、雨を此地に祈つて驗があつたと云ふ。
 林の字を書いてフロと訓ませた例は美作眞庭郡勝山町大字月田に字桑林(くはぶろ)がある。社の字をフロと訓(よ)む地名は三河寶飯郡八幡村大学市田に字宮社(みやぶろ)字中社(なかぶろ)等がある。以上の材料のみを見ると、神の社のフロと浴場のフロとは全く關係が無いやうであるが、自分は必ずしもさうは思はぬ。紀州などでも森をフロと謂ふことは、例へば續風土記高野山總分
方卷十七に、那賀郡友淵庄(ともぶちのしやう)中野村の小祠に風呂森(ふろもり)と云ふのがあつて、石地藏を祀つて居るのでもよく分る。然るに(以下略)


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09/16|メモコメント(0)TOP↑
異説 院庄のにらみ合いの松

※ 『津山一口ばなし』(津山郷土館 昭和41年発行 )より引用。



 院庄の田ンボの中にある”睨み合いの松”といえば、津山築城当時にからまる名古屋三左衛門と井戸右衛門との血闘によるものと一応話題となっているが、ここに異説”睨み合いの松”の物語がある。

 古来その地方々々によって特有の行事というものがあり、それが案外村々の持ち続けて来た習慣として、全く大胆にマカリ通るものも珍しくなかった。一例を示せば、旧藩時代までさかのぼる美作地方の農村で、五月の田植えがすむと、その一日を休日として”シロミテ祝い”というのが昔からの定めの行事としてやったものである。このシロミテ祝いの日には、植え残りの苗を村の娘さんたちが、最も交通の繁しい通バタに持ち寄って、折柄通りかかる通行人の誰彼なしに打ちつけて騒ぎまわるのである。

 それで通行人の方が頭を下げて一礼に及ぶと「今年の稲作は穂がしらを下げて豊年満作じゃ」と喜びハシャイだものである。
 時は万治三年五月、津山藩の勇士、不破伴左衛門が作西目木村を通りかかった時、ちょうどこの苗打ちの行事に引っかかって、めちゃめちゃに苗を打たれ泥まみれになってしまった。短気の伴左衛門が持ち前の癇癪玉を破裂させて、矢庭にそこらの娘ら三人を打ち斬ってしまった。

 百姓たちは一途に騒ぎ立てこの趣を藩の役所へ訴へ出た。藩としても、そうした百姓村の習慣を無視して、殺人沙汰に及ぶことは許されぬと、これが討手を名古屋山三郎と高木馬之助に仰せつかった。

 この不破と名古屋と高木とは、同じ藩中の三勇士と呼ばれる程の剛の者であり、また大の仲よしだったので名古屋は独りで考えた。そうして、髙木に知らせぬように、こっそりと事の次第を不破に内通して、その夜のうちに伴左衛門を逃亡させてしまった。

 これを知った高木がカンカンに怒り散らして、山三郎を呼び出し、翌朝”院庄原”でそこに生えていた松の木を引き抜いて血闘の上、そのままそこに投げ棄てたものが根を張って睨み合いの松になったと伝える昔話もある。



09/12|メモコメント(0)TOP↑
このたび、岡山県津山市の「鞍懸寅二郎研究会」の皆さんが幕末の津山藩士・鞍懸寅二郎(もと赤穂藩森家藩士→のちに津山藩松平家に仕官)の功績をまとめた本を出版なさいました。

1冊税込み1500円です。
購入については津山市内の本屋さんでも販売予定だそうですが、事務局の本源寺さんへのお電話でもOKとのことです。



2021331s.jpg


『没後百五十年 史料が語る 津山藩士 鞍懸寅二郎』
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2021年3月31日発行
【編集】鞍懸寅二郎研究会
【発行】森忠政公報恩会
A4サイズ
195ページ
『史料編』DVDつき

価格1500円(税込み)
事務局 本源寺(TEL:0868-22-7351 津山市小田中1373)

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以下、出版に関して山陽新聞の記事を引用
※実際に出版されたのは2021年3月31日です)
(※実際の販売価格は1500円だそうです)


(引用開始)
津山藩士・鞍懸寅二郎 功績知って 研究会が10月に本出版

 明治維新の際、津山藩松平家で明治新政府との衝突回避に尽力した藩士の鞍懸寅二郎(くらかけとらじろう、1834~71年)の顕彰に取り組む「鞍懸寅二郎研究会」は、功績をまとめた本を10月中旬に出版する。今年、150回忌の節目を迎えたのに合わせて企画した。

 研究会は寅二郎の墓がある本源寺(津山市小田中)の華山義道住職(49)が多くの人に功績を知ってもらいたいと呼び掛け、市内の郷土史家や歴史愛好家らで昨年5月に発足した。本源寺は津山藩森家の菩提寺(ぼだいじ)で、初代藩主森忠政(1570~1634年)を顕彰している森忠政公報恩会が協力。報恩会の副会長で郷土史家の竹内佑宜さん(73)=同市=が研究会の会長に就き、現在は15人で活動している。

 研究会は2カ月に1回程度の会合を開き、本の内容を精査。森家の後に藩政を担った松平家に仕官して活躍した寅二郎の生涯をたどり、徳川親藩だった津山藩で藩論をまとめたことや、新政府で国内行政を担当する民部省へ出仕したことなどを盛り込む。昨年12月に新たに見つかった直筆の日記や書状などの史料も内容に反映している。本は1500部作成し、1冊千円で市内の書店などでの販売を予定している。

 新たに見つかった史料約100点は本源寺に寄託されており、竹内会長は「出版を機に、寅二郎の功績を広める活動をさらに加速させたい。寄託された史料を展示し、多くの人に見てもらう場をつくれれば」と話している。

 出版の他、報恩会が準備している寅二郎の記念碑建立や、今月下旬に本源寺で予定していた150回忌記念法要と記念碑除幕式は、新型コロナウイルスの感染拡大を受け延期。来年9月下旬に改めて記念法要や除幕式を行う。

 鞍懸寅二郎 赤穂藩の下級藩士の家に生まれ、勘定奉行を務めた。1862年に津山藩松平家へ仕官。渉外を担う国事周旋掛を拝命し、津山藩領だった小豆島沖の英国船上で船員の銃が暴発して島民が死亡した事件(64年)では、当時としては異例の賠償金を勝ち取り、全国に名を知らしめた。明治維新の際は、藩主慶倫(よしとも)の上洛(じょうらく)に尽力。71年8月に何者かに銃撃された。享年38歳。

2020年9月 2日 14:47
記事提供:山陽新聞社


(引用終了)
関連ニュースリンク
『津山藩士・鞍懸寅二郎 功績知って 研究会が10月に本出版』(山陽新聞デジタル|さんデジ)

『発見 津山藩士・鞍懸寅二郎の史料 直筆日記や写真原本など100点』(山陽新聞デジタル|さんデジ)

03/31|イベントコメント(0)TOP↑
金山城を犬山城へ移築したことが書かれた古文書の“写本”が『なごやコレクション』のサイトにありました。

【なごやコレクション】
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/top



正事記(1665年) 津田藤兵衛
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00000070
29ページに兼山(金山)城のことがでてきます。
金山(兼山)城移築のくだりの原文を掲載しておきます。

『犬山昔は三光寺を本城とせられ今の天守の有所は白山権現立たまひけるよし。中比(ごろ)、白山をハ城より東の丸山へ移し其跡を本丸に今はなり、天守三重也。其昔は二重也しか太閤薨御之後、其の時の城主小笠原和泉守吉次の御代に濃州兼山の古城を引取て立直し三重になり、大手口惣構も其時廣く成たる由申傳ふるなり』



犬山里語記(1817年) 肥田信易
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001300

58ページの『石川備前守貞清』の項目に金山の城を木曽川に流して犬山に移して天守を建て櫓を造った件が記載されているのでそのくだりの原文を記載しておきます。森左近とあるのは「右近」が正しいヨヨヨ。

慶長四年己亥秋、徳川公、金山之城主森左近大輔忠政を信州川中島へ転して金山の城ハ毀(こわし)て天守・櫓・殿宇・諸士之居宅迄(まで)石川光吉ニ賜る。翌年庚子之年之夏是を木曽川に下し悉く犬山ニ迁(うつ)す、天守を建て櫓を造、砦城とす。


95ページの『寺院 青竜山瑞泉寺』の項目に兼山(金山)城の門が寄進された件が記載されていますのでそのくだりの原文を掲載しておきます。

一、惣門、里俗、黒門と云。石川備前守御寄進之由。是ハ濃州兼山古城之御門なる由聞へける。


なお、52ページから54ページの『(御城主) 一、池田紀伊入道勝入斎』の項目に森長可が登場したので、長くなりますがせっかくなので原文を掲載しておきます。
いや、でも肝心の討死の場面が「詳しくはWEBで!」のノリで割愛されていること途中で気づいてショック(詳しくは著者が『犬山むかし物語』に書いたそうです)!…でも、せっかく活字にしたので掲載しておきます。
一、池田紀伊入道勝入斎
再主也。天正十ニ年三月十三日夜より保城二ヶ月。此時、秀吉公之大軍、宇留馬之渡りに藤橋を掛て犬山ニ入城す。其勢、凡十二万五千余騎。国侯内大臣ハ徳川公へ援兵を乞て小牧山を本陣とし、是ニ対する陣営ハ、犬山了義山徳授寺之殿堂幷塔頭之院々を借り取壊し、青塚村ニ茶臼山を築対陣とす。其外ひがしハ二重堀、村岩崎・小松寺山・外窪内窪の山々に諸勢の砦を拵、半途成楽田ニハ堀を築玉ふ。于時濃州金山(今、兼山といふ)城主森武蔵守ハ、犬山の城を池田ニ奪レたるを口惜く思ひ、如何して此恥を雪んと思ふ処ニ、秀吉公より尾藤甚右衛門使者として被仰越けるハ、今般尾張国へ発向、池田・森之両氏味方ニ属し玉らハ、幸ひ美濃・尾張・三河、此三ヶ国ハさし出置候。いつれニも両氏之軍功次第所領ニ可相渡旨
御書到来故、秀吉公犬山へ入城以前に(?)一働して敵味方之眠を醒せんと犬山へも不申談、善師野通より羽黒村旭之里ニ出張して、大川を前ニ当て陣営を構たり。かかる所へ小牧山より酒井左衛門大夫、所々順見に出玉ふ折から八幡林ニ旗さし物の陣営有るハ金山之城主森と見受たり。公ノ訴て先つ此敵を追払んと言上して、三月十七日早天より三、四将具して八幡林ニ向ひ玉ふ。森軍、利あらずして、居城金山へ敗北す。家臣野呂助左衛門と云者口惜思ひ、主君之恥を雪んと乱軍ニ駈入て戦死す。其子助三郎も戦死す。今に野呂塚といふあり。羽黒の合戦敗北と聞て犬山城中騒動す。仍て一鉄斎、軍勢を引て犬山出崎ニ出張す、今正久寺之前之所成と云。委敷ハ予が著述したる犬山むかし物語ニ筆し侍る。一説ニ此日
秀吉公犬山ニ在城と云事有。公ハ廿一日之入城也。此事不詳。秀吉公大軍を引て夫々之砦・陣所の配分有。楽田を対城とし、犬山を根城として犬山ニ御逗留有り。町人丸屋平兵衛・大阪屋吉次と云者、兼て公の御懇命を蒙りたるもの也。平兵衛、登城して御目見仕候処、御短刀一腰拝領仕候。吉次も無事成や心得呉よと上意あり。下城之折ニ吉次ニ申伝へ候処、吉次も登城して御目見あり。軍扇一握拝領す。両人共、子孫ニ伝へ侍る重宝也。可惜、明和之頃ニ両品共紛失して、今其家ニなし。長久手の御陣後、秀吉公御退城ニて加藤遠江守へ当城を御預被遊候。


09/10|森家コメント(0)TOP↑
『麒麟がくる』の影響で、森蘭丸を討ったとされる「四王天又兵衛」のことが丹波地方(出身地)や福井地方でニュースにあがってくるようになりました。
福井県文書館に所蔵された史料で四王天又兵衛がらみで森蘭丸のことがでてきたのでここにリンクを紹介しておきます。


『諸士先祖由之記 二』
享保6年(1721)松平文庫

四王天又兵衛政実
『天正十年平信長公御生害之砌森蘭丸長康ヲ討取』と書いてあります。(↓掲載ページ 福井文書館サイトに移動します)
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1033092-1-p19

(以下、福井県文書館より引用)
「諸士先祖由之記」 享保6年(1721)
松平文庫(当館保管)
享保6年(1721)、福井藩主・松平吉邦の命を受け、中級以上の藩士が提出した先祖由緒書を集成したものです。
四王天家の元祖・又兵衛政実は明智軍に属し、本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとしています。
(引用終了)




その他 福井文書館サイト様 記事へのリンク

『越前と明智光秀 -"伝承"をたどる-』
展示箇所は、光秀方の安田作兵衛と信長方の森蘭丸との戦闘場面で、この後左手から登場した四王天又兵衛が蘭丸の首を取りました。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/20200124m.html

光秀と四王天家
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/4.pdf

『文書館ふくい』no.118
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/611013.pdf
■えっ?あの舟橋役の家が!?■
四王天又兵衛政実は、本能寺の変において、明智光秀方として織田信長方と戦い、信長方の小姓森蘭丸を討ち取ったといわれています。



「ちょ、ちょっと待ってよ。
森蘭丸を討ったのは安田作兵衛さんだよ!
ぼく、ちゃんと見てたもん!!」

とおっしゃる方もいらっしゃると思います。
私もそう認識しているのですが、史料的価値の低い『絵本太閤記』に四王天又兵衛が登場します。(ほかにも出てきたらご教示ください)

20200430a.jpg

『絵本太閤記』に登場する『森蘭丸討死の図』です。
まさに森蘭丸が安田作兵衛の股間に鑓を刺さんとする瞬間です。
この画面左手にいるのが四王天又兵衛です。赤丸で囲んだヤツがそうです。森蘭丸に向って走り寄ってきています。嫌な予感しかしません。
絵本太閤記のこの場面の内容を軽くご紹介しておくと、

【前回までのあらすじ】
明智光秀の本能寺襲撃で織田信長も森蘭丸も大ピンチ!明智の三羽ガラスと呼ばれた安田作兵衛が、しつこく信長を攻撃してくるよ。それに怒りしんとうで安田作兵衛に雷を落としたのが森蘭丸だったんだ。森蘭丸は、「森蘭丸を見知ったるか!」と背後から作兵衛に鑓をくりだしたんだよ。

【『森蘭丸討死の図』ダイジェスト現代語訳】
森蘭丸と安田作兵衛との戦闘で作兵衛は後ろ飛びで庭に飛んだら溝にあおむけに落ちてしまった、すかさず蘭丸は作兵衛に鑓を突き下ろした。
作兵衛はその刺された鑓に取り付いて起き上がり抜いた刀で森蘭丸に切りかかった。
素肌姿の蘭丸は両足を切り取られてしまった。そして四王天又兵衛、満を持しての登場です!

素肌の蘭丸両足を切落され
哀れむべし大剛の勇士
枯木を倒すごとくとふど転ぶを
四王天又兵衛 走寄(はしりよ)りて首を取りけり




つまりは、真偽はともかくこの内容によれば
安田作兵衛が森蘭丸を倒した後に
四王天又兵衛が駆け寄ってきて蘭丸の首を取った!!

ということのようです。
安田作兵衛が「俺のやろが!!!」とか怒らなかったのでしょうか?
歴史は黙して語りません。
04/30|森家コメント(0)TOP↑
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うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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