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博多では7月になると博多祇園山笠というお祭りで盛りあがります。
詳しい内容はこちらの公式サイトをご参照ください。

博多祇園山笠公式サイト
http://www.hakatayamakasa.com/

で、
今年(2017年)の一番山笠・中州流れの飾り山の見送りが
「本能寺の変」でしたので、撮影してきました。

20170703a.jpg

飾り山のてっぺん付近に配されたお人形は正親町天皇でいらっしゃいます。
本能寺で奮戦する織田信長と森蘭丸のお人形さんと、それに対するは斎藤利三と明智惟任日向守光秀だそう。
現地の説明書きを丸写ししました(↓)。


本能寺の変
人形師:中村 信喬
天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)の早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀により襲撃された事件である。場面は、当時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)を最上段に配置して、織田信長が弓を手にして立ち、小姓の森蘭丸が刀を抜き放ち、明智家臣、斎藤利三(さいとうとしみつ)が今正に槍を構え信長を撃たんとする姿を中段に配置して、下段に明智惟任日向守光秀(あけちこれとうひゅうがのかみみつひで)が『敵は本能寺に有り』と言い采配を振っている姿を製作いたしました。



そして織田信長と森蘭丸のお人形さんのアップを撮影してみました。
織田方がこの二人なんていいチョイスですよね~。
蘭丸、小学生のように初々しい!!桃太郎さんみたいだぞ!ガンバレ!
おっしょい!おっしょい!!(山笠のかけ声)


20170703b.jpg

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07/03|イベントコメント(0)TOP↑
津山市本源寺さま(岡山県津山市小田中1373)でのイベントを紹介いたします。
20170610b.jpg

20170610a.jpg


津山藩初代藩主・森忠政公の奥方・お岩の初盆に万灯をともしたのは慶長十二年(一六〇七)のこと。
それから忠政公五十回忌までの七十六年間、庶民らの手によって万灯会は続けられました。
昨年、奇しくも三百三十三年ぶりに美作国万灯会は見事に復活を遂げました。
そして今年もまた、七十八回目の万灯がともされます。


第七十八回 美作国万灯会
・日時:2017年7月1日(土)18:00-20:30 (※雨天順延)
・会場:本源寺
・拝観料:無料
・献灯料:500円(※中学生以上)
・無料演奏会、および出店あり

本源寺 特別拝観
・日時:2017年7月2日(日)-7日(金) 10:00-16:00
(最終日7日は午後のみ)
※期間中は、お抹茶とお菓子を用意しております

初代津山藩主 森忠政公 毎歳忌法要
・日時:2017年7月7日(金)10:00-
・会場:本源寺本堂
法要後、特別講演を開催いたします(無料)
・講師/津山郷土博物館 小島徹さん
・演題/『津山藩主 森家の終焉』
※どなたでもお参りできます。
森忠政公の守り本尊・千手観音像(高さ5寸5分)を特別に御開帳いたします



津山市サイト内にもこのイベント紹介がありますので、URLをはっておきます。
第78回 美作国万灯会(みまさかのくにまんとうえ)
http://www.tsuyamakan.jp/event/detail/?pk=111

また、同じ期間に鶴山公園(津山城跡)でも夜間特別イベントが開催されるそうです(2017年7月2日-7月7日)。
夢輝く津山城~イルミネーションで甦る津山城~
http://www.tsuyamakan.jp/event/detail/?pk=114
06/10|イベントコメント(0)TOP↑
国立国会図書館のデジタルコレクションで 『本朝鍛冶考』を閲覧することができます。
この中には森長可の愛鑓 『人間無骨』、および森蘭丸が織田信長公より拝領の刀剣『貞宗作の刀』のことも書いてあります。

書名:『本朝鍛冶考 』(ホンチョウ カジコウ) 鎌田魚妙 撰.
出版:近江屋平助 ; 河内屋徳兵衛, 嘉永4 [1851]
形態/付属資料 12冊 ; 25cm. 和装.


なお、このページでご紹介する画像はすべて国立国会図書館ウェブサイトから転載したものです。



森長可の愛鑓『人間無骨』

まずは、
「ぼくも、わたしも、みんな、あなたに切られたかった(or 刺されたかった)_______。」
で、おなじみの森長可公の愛鑓『人間無骨』です。
サイズや穂先の詳細が書かれています。図は表面で「人間」と彫られていて、裏面には同じ箇所に「無骨」と彫られているとのこと。

以前、私が北九州市立図書館でコピーしてきたこの図を某資料館の館長さんにお見せしたところ、この図を参考に発砲スチロールでまったく同サイズの穂先を作成なさいました。そしてそのしあげとして発泡スチロール人間無骨にシルバーのカラースプレーをかけたところ、「溶けた。」とのことでした。
さすが人間無骨!なんと、まぁ恐ろしきことよ!はっはっはっ!
(あ、その後また新たに作り直しされたそうです。)
20170507a.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』人間無骨 画像引用元URL(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/29




森蘭丸が織田信長より拝領の相州貞宗作の刀
 お次は貞宗作の刀です。
『本朝鍛冶考』には刀剣の図と解説とが2ページにわたって掲載されています。
1ページめ
↓貞宗作の刀とは、2番目と3番目のイラストの『相州貞宗作 長如図』)のことです。
刀が上下半分に分かれて表示されているので脳内で
『シャキーン!カシーン!合体!』
と結合させてご鑑賞ください。
ところで『相州貞宗作 長如図』の「長如」って何なのでしょうか?刀の銘でしょうか?これまで誰もここに触れてくれてないのでわかりません。
20170507b.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/35

なお、1番右のイラストの刀は”志津三郎兼氏”作の刀で、解説によればこの刀も森家に伝わる重器で、しかも蘭丸の貞宗作の刀とは対になる存在だそうです。また、貞宗の刀の制作の模範となった刀でもあるそうです。
…と、解釈したのですが、合っているでしょうか。(私の解釈ミスで嘘ついているかもしれません。)


2ページめ
このページの始まりの最初の2行がさきほどの『相州貞宗作 長如図』に対する解説で、それ以降の図や文章はまったく別の刀剣について書かれています。
20170507c.jpg
『本朝鍛冶考 戌亥』貞宗 画像引用元URL http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563727/36

さきほど、志津三郎兼氏の刀についても生意気に解説してしまったついでにこの最初の2行の内容をわかりやすく書きなおしますと
『この貞宗は永禄頃、平(織田)信長公森蘭丸へたまふ所にてその後代々かの家(森家)に伝えられ、右の志津刀に対せり、実(は)この作の模範なり。』
とのことです。

05/06|森家コメント(1)TOP↑
自分用メモ。行かねば。入らねば。

湯原温泉(岡山県真庭市)


温泉寺文書
湯本にあった温泉寺(薬師堂が温泉街に残っている)文書の中に「慶長十七年に湯本村の美甘宗玄が森忠政の許しを得て温泉を開き、薬師堂を建立した。宗玄は久世町薬王寺の檀家なので、薬王寺の末寺として温泉寺と名付けた。棟札は慶長十七年、願主・宗玄」とある。また、「本尊は薬師如来であり、開祖は美甘惚兵衛、慶長十一年成就」(『湯原町史』から)とある。
江戸期から温泉の元締めをしていた湯本屋の美甘家に残る森忠政の温泉免許文書にも、「湯本請所(温泉のこと)について申し付ける。他国の者が出入りするので、諸事みだりなくするよう心得ること。当年中の請所の運上銀(税金)は、二百七十目。湯本村、惚兵衛、慶長十七年(一六一二)」と記され、温泉の起源について触れている。

(元禄の資料が示す伝承)
慶長年間になり、森忠政は(宇喜多秀家の造った)湯場を修復して訪れた。二代目藩主の長継も新たに修理した。また、その子忠継もたびたび湯治に訪れた。

『昭和40年にたどった大山道』小谷善守 津山朝日新聞社 より引用




露天風呂 砂湯(すなゆ)
砂湯はもともと平安中期の僧侶によって開かれ、初代津山藩主・森忠政が川底から湧き出る泉源を石で囲って湯船を造ったと伝えられています。

湯原温泉「菊の湯」サイト様より。
http://www.yubara-kikunoyu.com/sight/yubara_onsengai.html


11/22|メモコメント(0)TOP↑
この記事は「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」の続きです。

「なぜか忠政が放火犯になってる件 1」を読む。


>『妙見宮由緒書』(密蔵院蔵)
一部抜粋。なお、環境依存文字は管理人の判断で常用漢字に変換しています。

一、中古兵乱打続、神社等一統衰廃之時節ニ及ひ、濃州土岐郡妻木之城主伝入、幷、同国可児郡兼山之城主森右近、右両人天正年中放火いたし、当社寺院とも焼失仕、其後太閤秀吉公朝鮮御征伐二付、諸国ヨリ兵船之材木出候所、当山妙見宮ハ七曜破軍星之上首、殊ニ稲種命者、東夷征伐武勇之神ニ候得ハ、旁之故を以、当社神木之内ニテ、帆柱杉木七本御伐取有之、右ニ付、本社等再建可致旨ニテ、料物被下置候、右金子を以、其砌本社等再建仕、則只今之社ニ御座候、右由緒を以、秀吉公御再建之社と只今も申伝候事ニ御座候

一、前顕之通、天正三年妻木之城主幷兼山之城主申合、放火いたし、当社不残焼失仕候、然処、右両人神罰を受ケ、種々之禁御座候付、両人とも前非を悔ひ、御詫を祈候処、妻木之城主ハ当社内ニ鐘楼を建、幷妻木村之内ニ妙見宮を勧請仕、日拝崇敬いたし、其後神罰を遁レ、子孫只今妻木村之城主ニテ、御旗本ニ御座候、右建立之鐘楼ハ、只今社内之鐘楼ニテ、棟札ニ慶長十八年願主妻木雅楽助源家頼建立等之旨、相認御座候、尤先年ハ右家ヨリ仰渡御座候事之由申伝候





ここでも妻木伝入(貞徳)と森右近(忠政)が寺社に放火したと明記しています。
しかも、「妻木伝入と森忠政が『申し合わせて』放火した」と書いており、そちも悪よのぅ感が増しております。
前半にご紹介した『妻木戦記』との大きな違いは、『妻木戦記』では放火事件が長久手の合戦の折の天正12(1584)年だったのに対し、『由緒書』では天正3(1575)年となっております。

天正3年といえば、
森忠政は数え年6歳
ついでに妻木伝入(貞徳)は、40歳であります。
しかも、金山城主は森長可ですし、森蘭丸・坊丸・力丸兄ちゃんらもまだピンピンしていた時節であります。

「妻木伝入(40)と森忠政(6)が申し合わせて放火した」

それってありなの?いいの?
そういう場合、忠政(6)が「燃やそうぜ!」と言おうが何を言おうが、大人の伝入(40)さんが
「本当に火をつけてもいいかどうか、おうちの人を呼んで確認しようね。」
と言うべきでしょう。
それを言うならまだ『妻木戦記』の「あれは長久手の合戦の折の放火でした」設定のほうがあり得る訳で…。
でも、長久手の合戦の時に森忠政が妻木軍と行動を共にしたとはとても考えられず…。
『由緒書』のいう「申し合わせ」という表現に従うなら仮に忠政が現場にいなくても、妻木氏と連絡を取り合って指示をくだせるかも知れないとは思いましたが、森家の当主の森長可が戦死したなう。という最中に、まだ当主でもない森忠政と妻木氏とがそんなやり取りしてるのもおかしいですし。

結局、森忠政がなぜ『妻木戦記』や『妙見宮由緒書』に放火犯として妻木伝入と名前を連ねられているのか、謎が解けないままです。

なお、『由緒書』のほうの記述によれば森忠政も妻木伝入も神罰を受けて何らかの禁(神様に制限をかけられた?)があったので両人ともに反省し、お詫びを祈ったそうです。
「妻木城主は当社内に鐘楼を建て、妻木村にも妙見宮を勧請して日拝崇敬したから神罰を逃れて子孫は今、妻木村の城主で旗本でございますよ。」
と書いてありますが、一方、妙見宮へのお詫びに何もしていない(由緒書きに何も書かれていない)森忠政はといえば、のちに美作国主になったのでありました。

結局、状況的に内々神社(妙見宮)に放火するのに無理があるはずの森右近忠政の名がどうして出てきているのかわからないまま、事件は迷宮入りです。
なんかスッキリできるいい史料が他にありませんかね。

Σ(゜□゜;
はっ!まさか!これは!
妻木伝入:「放火してよろしいものか。」
妻木伝入:(その場にいない忠政のクチマネで)「いいよー。」
妻木伝入:「森家と申し合わせ終了。森家と一緒に放火。」
いや、まさかそんな…。

コナン君でもいいです(各務兵庫に麻酔針プスッ!)、どなたか、この謎を解いてください。


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11/20|森家コメント(0)TOP↑
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Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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