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可児市観光交流会館(岐阜県可児市兼山) 
20180603-kaikan.jpg

平成30年4月にリニューアルオープンした「可児市観光交流館(旧・活き活きプラザ)」には、美濃金山城跡の縄張図スタンプが置いてありまして、自由に押せるようになっています。
自由に押せるというのは、紙に自由に押せるだけで、
「お腹に押したい」
「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった そのガラスにスタンプ押したい(by尾崎豊)。」
などはできません(受付で聞いてみないとわからないけどたぶん不可)。

スタンプ本体の写真を撮影するのをうっかり忘れてしまいましたが、シャチハタ製でした。

今回なんとなく、その印影をブログに掲載します。
これら(↓以下 画像)は私が兼山を訪問した時に紙にスタンプしておいたものを自宅に持ち帰ってスキャンしたものです。
このすごいケバ線をみんなで一緒に数えないと、なんかもったいないですしね!

20180731143240_ページ_3

20180731143240_ページ_2

本当はスタンプ本体が欲しかったのですが…お高いらしいです、持ち出し禁止です。館内でお楽しみください。


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07/31|お役立ちコメント(0)TOP↑
前回に引き続き、また阿夫志奈神社(岐阜県加茂郡川辺町上川辺)の話題になります。

→前回ブログ『阿夫志奈神社と森蘭丸と宇宙と

20180603d.jpg
阿夫志奈神社(あぶしなじんじゃ)
この境内の北東には、米田城主・肥田玄蕃の息子である長寿丸の墓があります。
やぶ蚊に刺されつつ、お参りしてまいりました。

20180603c.jpg
肥田長寿丸の墓
言い伝えで、長寿丸の墓とされてきたものです。
側にあった説明看板の内容を下に書きだします。
20180603e.jpg



(説明看板より引用)

肥田玄蕃允の息子 長寿丸の墓

天正十年六月兼山城主森武蔵守は軍勢を率いて福島城に攻め寄せた。その夜福島城では祝事が終わり家中退出した後であった。玄蕃允は敵情を知ると応戦を諦め、二、三人の家来と奥方を連れて天子の渡しまで脱出した。
一方 馬串山城に居た長寿丸は父の居る福島城の異変を聞きつけ、家来を連れて城に駆けつけた。しかし時既に遅く、父玄蕃允は城を落ちのびた後であった。長寿丸は追い来る兼山勢を斬り抜けて、父母の後を追ったが、後から鉄砲で左脇腹を撃ち抜かれた。重傷を負いながらも長寿丸は、天子の渡しで父母に追いつくと、力尽きて息を引取った。主従は嘆き悲しみ「敵に首を渡せば一門の恥」と言うと船番が「ここは天子野と言う所で建仁の昔岐阜に移られた二階堂山城守行政殿の居城跡です。此の尊い土地に葬られたがよいでしょう」と言うので、玄蕃允は涙乍(ながら)に此の地に長寿丸を葬った。
奥方は悲しみと疲労で倒れたが、天王様のお手水を頂いて息を吹き返した。奥方は上川辺にかくまわれている中に乙姫神社を再建し、深く信仰した。
勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった長寿丸は此の地に静かに眠っている。
「肥田軍記に依る」 阿夫志奈神社特別調査委員会

(引用終了)


説明にあるとおり、”勇気は人に優れ、孝心殊に篤かった”長寿丸はこの神社の杜の中で静かに眠っているのですが、なぜかその墓の横はオシャレでファンシーなカフェ庭園なのでありました(カフェと神社の間に壁がない不思議空間)。

ときに長寿丸、二十八歳。
長寿じゃないね。
世は無常だね(森長可のせいだけど)。


わが子を失った肥田玄蕃はそのまま近隣の加治田城(親戚がいる)へ逃げ、兵を借りて再び森軍とぶつかり合うのですが、やっぱり玄蕃は森長可の敵ではなく、またしても敗退してしまいます。
調子こいた森軍に郡上八幡城まで追っかけてこられてしまうのは、それはまた別のお話。

07/09|森家コメント(0)TOP↑
阿夫志奈神社(岐阜県加茂郡川辺町上川辺)に参拝してまいりました(2018年6月3日)。
森家の故郷である兼山から車で15分ほどのところにあります。


20180603a.jpg
阿夫志奈神社(←うーん、読めない!)

阿夫志奈神社は「あぶしな じんじゃ」と読むそうです。
弘仁2年(811)、天下を襲った疫病の平癒祈祷のために建設されたと言われています。
ここには、『森蘭丸の棟札』と言われるものがあり、それを特別に見せていただきました(普段は社務所は無人となっております)。

「森蘭丸の棟札」とは?

川辺町のサイトで『川辺町史』(平成8年)を閲覧することができ、「森蘭丸の棟札」についても説明されています。
棟札画像もここでチェックできます。
↓↓
『川辺町史 通史編 第二章 古代・中世』
http://www.kawabe-gifu.jp/?page_id=12750

阿夫志奈神社の森蘭丸の棟札については134ページをご覧ください。


『川辺町史』(引用開始)
本能寺で信長とともに討死した森蘭丸は、永禄八年(一五六五)金山城内で生まれたといわれている。しかし、川辺町上川辺地区にある阿夫志奈神社の棟札には、次のような記述がある。(棟札画像)

維時永禄七年
奉寄進御幕壹張 大願主森蘭丸源長定
甲子二月吉日

これによると蘭丸出生のさい、幕一張を阿夫志奈神社に寄進したとあり、生年は永禄七年(一五六四)で、一年早く出生したことになる。生年の記載誤りとすれば、十干十二支の甲子との関係が説明できない。七年と十干十二支は合致しているからである。当時の文献的な生年の記録は、必ずしも正確なものとはいえず、少なくとも出生のさいの神社への寄進は、神仏崇拝の観念から、正しいものといわざるをえないのである。今後の研究に待ちたい。

(引用終了)


この棟札を根拠に、「森蘭丸 永禄七年出生説~本当は19歳で討死したのかも~」もあるようです。

しかし、この棟札に書かれた文字のどの部分に「蘭丸出生のさいのもの」と解釈できるものがあるのか(私には)わかりません。そこまでは書いて無いような気がします。書いてないですよね?どなたか、書いてないよ、大丈夫だよってコメントしてください。

ちなみに、正式な文書として残る『阿夫志奈神社由緒記(明治12年)』には森蘭丸の棟札のことは登場しません。

棟札に書かれた文字を改めて確認してみます。

維時永禄七年
奉寄進御幕壹張 大願主森蘭丸源長定
甲子二月吉日


「維(これ)時 永禄七年
寄進(きしん)奉(たてまつ)る 御幕(まく)一張(ひとはり) 大願主 森蘭丸源長定
甲子二月吉日」

先入観を取り除いて解釈すると、この棟札は「大願主 森蘭丸源長定」とかなっているからには、ほかならぬ森蘭丸本人が願主となって永禄七年に幕を一張奉納しているという事なのではないのでしょうか。(定説に従えば、蘭丸当時マイナス1歳)
だったら「蘭丸もっともっと年輩説~私はおっさんだったのかも~」を出していいのでしょうか。
しかし、そもそも森蘭丸本人とその関係者が実際に名前に「蘭」という字を使っている形跡はないし(本人や信長の書状では「蘭」ではなく「乱」)、そして「長定」は恐らく本人は使ったことがない諱なので、ここに書かれた「森蘭丸源長定」はいったいどういうことなのでしょうか。
そして、奉納されたはずの幕はいったいどこへ?!
現存すれば、その幕でぐるぐる巻かれたいファン続出でしょうが(←幕の本来の用途とは違います)、残念なことに幕は現存しません。

見せていただいた宝物の「森蘭丸の棟札」はもう墨の色が失われていて、読みづらくなっていましたが、木の表面の墨書きの跡が凹凸に浮きあがっていてそれで何が書いてあったか奇跡的にわかるような感じでした。
裏面を確認してみましたが、やはり何も書いてなかったです。
『戦国ピーマンを食べれるようになりますように』とか、『戦場かけっこで優勝できますよう、その祈願ために幕を奉納』などの願主の具体的な願い事が書かれていてもよいと思うのですが、書かれていませんでした。

ここで更に私の仮説に基づいてこの棟札について色々検証してみたいと思っていたものの、我には知識がないのでそれは無理であり、それよりも社務所の壁にさりげなく貼ってあった報告書にクリビツいたしました。

日本原子力研究開発機構東濃地科学センターさんが「蘭丸の棟札」の木材に含まれる炭素を加速器質量分析装置で測定して(放射性炭素年代法)、作成年代を予想していたのでありました。

放射性炭素年代法とは、”宇宙放射線による核反応でつくられた放射性炭素(14C)を用いて年代を測定する方法”だそうです。森蘭丸の棟札の木材に含まれる放射性炭素の濃度を測定して作成年代が割り出されました。

宇宙放射線のおかげで森蘭丸の棟札の作成年代がわかったということです、奥様。
なんて壮大な展開!!!!
なんてすごいオチ!!!
Σ(゜□゜;

その内容がこちら。


(阿夫志奈神社 社務所に貼られていた 日本原子力研究開発機構 東濃地科学センターポスターより引用)

阿夫志奈神社には、この地域にゆかりの深い森蘭丸に関係する寄付名板が納められていました。
森蘭丸が誕生した時に寄進した御幕壹張の寄付名板で、永禄7年(1564年)2月に寄進されたと書かれています。この名板が森蘭丸誕生当時のものであれば、非常に価値の高いものとなります。そこで、この名板の年代を推定することとなりました。

【測定結果】
木材の年代 1673~1697年
年輪を考慮して板両角を測定した結果、名板は、17世紀後半の木で作られたと考えられます。名板に記載されている幕の奉納時期は1564年ですので、残念ながら名板は奉納時期のものではなく、江戸時代以降に作り直されたものと思われます。

(引用終了)


日本原子力研究開発機構 東濃地科学センター
https://www.jaea.go.jp/04/tono/
地層研ニュース「阿夫志奈神社の奉納物や本殿の年代測定を行いました」
https://www.jaea.go.jp/04/tono/miu_news/tisouken_news2307.pdf





日本原子力研究開発機構 東濃地科学センターさんは「棟札」という言い方はせずに、「寄付名板」として紹介してあります。
そして、『江戸時代以降に作り直されたものと思われます。』という調査結果に納得。
とりあえず、現存の棟札(寄付名板)そのものは森蘭丸が書いた(書かせた)可能性はなくなりました。
後世の神社関係者が『永禄七年に森蘭丸から幕を一張(はり)寄進を受けた』宝物の証が失われないように、棟札(寄付名板)を新調したか、改めて作り直したか、ということでしょうか。その時に、「森蘭丸源長定」という名前が彼の正式名として関係者によって選択されたのかもしれません。そしてもしかすると、もともとのオリジナル棟札(寄付名板)には、裏面に願主の祈願したことなどの詳細も書いてあったりしたのかもしれません。

06/25|森家コメント(0)TOP↑
自分用メモです。
このお話は書籍で一回きりしか目にしたことがないのですよね…。



安土の亡霊

本能寺の変の際、信長は白の一重といういで立ちで鑓をふるい、明智方と戦ったが、かつて安土城が聳え立っていた滋賀県安土町の城跡などには、白の一重で鑓をふるう信長の亡霊が現れるとされる。また、城跡には白蛇が棲むとも喧伝されるが、これは本能寺の変で横死した小姓の森蘭丸長定に恋い焦がれた娘が、白蛇に化身したものとされ、信長の亡霊や白蛇を目にした者には祟りがあるという。



『別冊歴史読本82 一族シリーズ 織田一族のすべて』(新人物往来社 1998年8月27日発行)
「織田一族の伝説」より引用





05/08|メモコメント(0)TOP↑
この記事は、以前ご紹介した逸話
蘭丸君の逸話「まん、まん」 その1 
の続きの記事になります。原文はそちらの記事でご確認ください。


現代語訳は下方にあります。
くどくどとした前置きがお嫌いな方は、下のほうまでスクロールしてご覧ください。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

(くどくどとした前置き)
細かい解釈に色々ととまどってしまい、現代語訳が遅くなってしまいました。
原文の
『何(なに)となく暁の衾(ふすま)の上、宵の御枕の下ゆかしくたはれたる心にや』
『本能寺の逆乱に死を先にして名を残す』

の二か所の部分が特にわからず、どう訳したものか困っていたところです。
現役の高校教師(国語)の先輩にも教えを乞いつつ、なんとか結論を出しました。
『暁の衾の上、宵の御枕の下』という表現ですが、結局は他の文献での使用例を見つけることができませんでした。でも、言いたいことは『寝ても覚めても森蘭丸』『朝な夕な常に森蘭丸』っぽいことなのだろうというのはひしひしと感じます。
思うに当時のオサレな表現方法だったのでしょう。
あ、衾(ふすま)というのは昔スタイルの掛け布団のことでして、いわゆる部屋と部屋を仕切る建具である『襖(ふすま)』のことではありません。娘さんが襖(ふすま)を取り外して乗っかってクロールしながら「はぁあああああ、らんまるぎみ~」と、恋のサーフィンをしていた訳ではないのです。「まん」さんは、自分に芽生えた感情が「恋」という名のつくものであることをやっと自覚できたような、初々しく純粋な娘さんです。

『本能寺の逆乱に死を先にして名を残す』は、すごく単純な表現なのに解釈がわからなくて、私もふすまの上でジタバタとクロールしておりました(比喩)。
先輩によれば
「死を先にして(まず死んだことによって、その結果)名を残す」
という解釈だったので、この流れに身を任せてそのように訳すことにしました。
先輩にはお礼に源氏物語シールと仏像シールを差しあげました。(要らない情報)。

前置きが長くなってしまいましたが、現代語訳してみました。
訳がおかしいと思われる部分がございましたら、ご教示いただけるとありがたいです。
(くどくどとした前置き終了)



《訳文》
森武蔵守長可は濃州(美濃国)の金山に在城し、弟の蘭丸長定も同居している。
金山のある町人の娘が病気になり、臨終のときに密かに言う。
「恥かしいけれど最期だから申します。そうはいっても叶わぬことなのだけれど、私は蘭丸君(ぎみ)の世にも妙(たえ)なるお姿を遠くからだけども拝見して、なんとなく寝ても覚めても常にあの方が慕わしく感じられます、私は恋に浮かれる気持ちになっているのでしょうか。」
これもまた人に言わないでと言って横になる。
ちょうどその時、蘭丸は野へおいでになる道でこの事を聞いて、小鷹を手に据えてかの町人の家にお入りになり、娘が伏せっている所へ入って
「まん、まん。」
と、お呼びになれば、娘は顔を上げて息も絶え絶えに「あっ。」と答える。
蘭丸が
「早くよくなっておくれ。私は必ずお前の力になるよ。ではまたすぐに来るから。」
と言ってお帰りになると、娘はそれと同時に死んでしまったということだ。
この娘は名を『まん』と言うとのことだ。
この蘭丸長定は森三左衛門可成の次男で、十五にして信長公に仕え、その恩寵ぶりは他の者に異なった。濃州岩村五万石の城主となる。若手にして勇智があり、本能寺の逆乱で死に、それにより名を残した。


先輩:「これ、蘭丸が町娘にとどめを刺してない?」


ノン!
…これはあくまでも蘭丸の”情の深さ”を味わうべき逸話なのであります。
森蘭丸ってお人は驕(おご)ったところがまったくなく、身分が下の者に対しても本当に心優しく丁寧で、純粋な部分を持ちあわせた立派な若者なのだと、この逸話が教えてくれます。

11/25|逸話の原文(森蘭丸)コメント(0)TOP↑
プロフィール

うきき

Author:うきき
戦国に生きた森一族が大好きです。
いつか戦国武将・森長可の騎馬像を鋳造するのが夢です。

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